前回にも述べたように、首都高建設には時間的・費用的に難しい条件下で設計・施工されました。
そこで、さまざまな問題を解決するために多くの工夫と独創的なアイデアが採用されています。
例えば、江戸橋ジャンクションの複雑極まる構造や、楓川河床をそのまま路線敷に転用するアイデアなどはよく知られるところです。
そのほかにも、首都高両国大橋が受賞した土木学会田中賞の受賞作を見ると、昭和41年度(目黒架道橋)、同48年度(高島平高架橋)と受賞が続いています。
その後も首都高速道路公団では独創的なデザインや新技術を採用する姿勢が継承されて、昭和52年度(蓮根歩道橋)、同54年度(辰巳高架橋)、同58年度(堀川筋高架橋・横浜市)、同61年度(かつしかハーブ橋)、同62年度(多径間連続充腹式アーチ橋)、平成元年度(横浜ベイブリッジ)、同14年度(五色桜大橋)、同25年度(首都高速八重洲線汐留高架橋の改築)、同28年度(首都高速1号羽田線 勝島地区橋梁 改築)、同30年度(中央環状線板橋・熊野町ジャンクション間拡幅高架橋 改築)【平成25年度以降の受賞は民営化されて首都高速(株)、公益社団法人土木学会HPによる】など、その作品は高く評価されています。
このように、多くの工夫がなされる首都高は、多様な景色が楽しめることや、急カーブや複雑な立地交差など特徴的な構造が連続することから、映画『惑星ソラリス』に登場したり、『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』の舞台になるなど、広く世界に知られるまでになっています。
このように、厳しい条件のなかで様々な工夫で東京を支える都市基盤を構築したことは、かけがえのない素晴らしい実績です。
そして現在は、首都高の自体が東京を代表する景観の一つとなっています。
言い換えるならば、首都高が日本の高度成長期を象徴する存在なのです。
その一方で、失われたものを忘れてはいけません。
例えば、かつて江戸の夏を代表する風物詩だった「隅田川川開き」の花火は両国橋北であげられていました。
ですので、近くの隅田川沿いは写真(中央区案内板掲載)のように、だれもが心待ちにする行事だったのです。
しかし、花火が浅草に移ったこともあって、江戸時代以来の風景が一つ失われてしまいました。
また、関東大震災からの復興を象徴する四大公園の一つ、浜町公園の景観もかなり変わってしまいました。
写真は隅田川テラスに掲示されている完成したころの浜町公園の風景です。
現在浜町公園から隅田川や首都高両国大橋を見る時、首都高の橋脚越しに見ることになります。
そして首都高が日本橋川や堅川、神田川上空や隅田川の岸を通ることや、箱崎川や油堀川を埋め立てて建設されていることは、橋マニアの私としてはちょっと残念。
特に、埋め立てによって川と共に多くの橋が消えていった事実を思うと悲しくなります。
一方で今回の首都高両国大橋をはじめ、蓮根歩道橋や多径間連続充腹式アーチ橋などマニア心をくすぐる名橋も誕生しているのですから、何とも複雑な心境になってしまうのです。
ただ、橋マニアの私から見て、首都高速両国大橋のデザインの中に、失われていくものへの畏敬の念を感じずにはいられません。
美しい風景や歴史的風物がなくなることは避けられないものの、なんとかしてその精神を尊重すべく多くの工夫がなされているように思えてならないのです。
だから、私はこの橋をとても愛おしく思います。
ですので、隅田川クルーズを楽しむ方々は、この橋の魅力に全く気付いていないのがとても残念です。
「橋は時代を映す鏡」です、この橋もまた現代の日本を象徴的に表しているともいえます。
さて、冒頭で首都高両国大橋をクイズにした時の話に戻ります。
この時は正解を知らなかったことで娘たちにこっぴどく叱られて、ケーキとココアをごちそうする羽目になったのでした。
今回、娘たちに「やっと正解がわかったよ。お父さんの答えで正解でした!」といっても彼女らはぽかんとした顔です。
なんと、もうすっかり忘れてしまったとのこと。
ちょっと残念に思っていると、お姉ちゃんが「そうそう、ケーキ食べた、おいしかった!」とおいしい口をしながら言います。
どうやら、お姉ちゃんからあの時のケーキの説明を聞いた妹も思い出したみたいです。
美味しいスウィーツの力ってすごいです!
三人で、またあのケーキ食べようね、と笑いあったのでした。
こうして世界で唯一の構造を持つ首都高両国大橋は、ケーキの美味しさとともに、娘たちの忘れえぬ思い出になったようです。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、
紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社
首都高速(株)と公益社団法人土木学会HP
次回は扇橋です。
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