前回では扇橋はじめ猿江三橋の美しい姿を見てきました。
しかし、この光景も一瞬で消滅することになります。
今回は扇橋に次々と襲い掛かる災害についてみていきましょう。
大正12年(1923)9月1日に発生した関東地震は、地震の揺れで被害を出したのちに下町の各所に火災が発生、これによって深川は壊滅的被害を受けました。
この火災で猿江三橋はいずれも消失しています。
この頃の写真(「扇橋」(復興橋区編『関東大地震(大正12年)震害調査報告 第2巻』)をみると、扇橋は橋に敷設された水道管ともども原形をとどめないほどに損傷しているのが見て取れます。
このように、三つの橋は甚大な被害を受けましたので、震災復興事業で三橋はいずれも架け替えられることになりました。
ただし新橋完成までは いずれも完全に焼け落ちた状態ですので、仮橋や渡し船で当座をしのいだとみられます。
震災からわずか二か月後の光景をとらえた、扇橋付近を行く乗合船の写真(「扇橋付近の乗合船」『東京震災録.地図及写真帖』)を見ると、私は未来を見据えたエネルギーのようなものを感じずにはおれません。
こうして復興事業で扇橋は、昭和3年10月に橋長40.8m、幅22mの三径間鋼鉄桁橋として生まれ変わります。
活気が戻ったこの地域には、猿江三橋が次々にかけられただけでなく、三橋の凹字形配置のへこみ部分に新たに新扇橋が架けられました。
これは、この地域の人口増加や産業振興を示すものに他なりません。
実際、震災から復興したこの地域は深川工業地帯の中心として発展することとなります。
昭和11年撮影の航空写真をよく見ると、扇橋周辺に多くの工場が立ち並ぶとともに、小名木川や大横川に多くの船が航行する様子を見ることができます。
復興したのもつかのま、今度は第二次世界大戦で米軍による無差別爆撃、東京大空襲を受けてしまいます。
再び深川では多くの方々が亡くなるとともに一面の焦土と化したのです。
関東大震災からわずか22年でまたもや壊滅的被害を受けることになってしまいました。
しかし辛うじて、猿江の四つの橋、新高橋、新扇橋、猿江橋と扇橋は焼け落ちることはありませんでした。
昭和21年撮影の航空写真をみると、焼け跡をかたずけた空き地が目立っているものの、着実に復興しつつある様子をうかがうことができます。
これらの橋は戦後復興と人々の暮らしを支えていくこととなりました。
ところが、再び復興して工業地帯が活気を取り戻したところで新たな問題に直面します。
立ち並ぶ多くの工場が工業用水として地下水を盛んに組み上げた結果、深刻な地盤沈下を引き起こしてしまったのです。
もともと地下水が豊富だった深川ですが、無秩序な工業用水の汲み上げによって地下水位が急激に低下したことが原因でした。
地盤沈下は、高潮や洪水の被害を大きくするとともに、橋は低くなって河川交通を困難にしてしまいます。
深川の魅力だった縦横に走る堀川が水運の用をなさなくなってしまったのです。
さらにもう一つ、地盤沈下は大きな被害を引き起こしました。それは、橋を痛め寿命を削るという厳しい現実です。
地盤が沈み標高が低くなると、海水の遡上域が広がるとともに橋の設計水位をはるかに上回る水位をもたらします。
これによって深川の橋は塩害と浸水による錆や劣化に襲われたのです。
また、東京大空襲の劫火に焼かれた影響も無視できません。
こうして震災復興で百年以上の耐久性をもっていた橋も次々と老朽化が進んで、設計よりもはるかに短い70~80年で使用の限界を迎えてしまいます。
この事態に追い打ちをかけたのが、阪神淡路大震災でした。
直接の被害はありませんが、予測される首都直下地震に多くの橋が耐えられないと判断されたのです。
これは扇橋も例外ではなく、平成17年に1径間スチールガーダー橋に架け替えられました。
架け替え前の扇橋の姿を平成4年撮影の空中写真で見ると、上空からは近くの大富橋で架替え工事が行われているのが分かります。
一方、小名木川に架かる新高橋と新扇橋は橋高があって規模も大きかったために比較的損傷が少なかったので使用が継続されて、耐震改修によって変わらぬ美しい姿を私たちに見せてくれています。
ここまで扇橋の歴史を見てきました。
次回では、改めて扇橋の魅力に迫っていきたいと思います。
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