前回は「幅は日本一で4台の電車が肩を並べて通る」(『帝都復興史』)大和橋の誕生を見てきました。
橋が生まれ変わってわずか16年後に、この橋を再び悲劇が襲います。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は壊滅、大和橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。
昭和21年撮影の航空写真を見ると、街のそこここに空き地が残っていますし、中には空襲の灰燼かと思われる黒い塊までが見られます。
町はまさに復興が途に就いたところ、何だか活気までが伝わってきそうに思えてきますが、この写真中央の大和橋をよく見ると、橋の歩道部分と安全地帯などに白っぽく見えるところがあります。
この白い部分はまたらしいコンクリートで、これは空襲による損傷を補修した痕跡と推察できるところです。
補修の痕も生々しい大和橋ですが、橋はしっかりとその役目を果たしているのが見えてくるのではないでしょうか。
大和橋は、このまま復興に貢献していくはずでした。
しかし、そうはなりません。
というのも、戦災からの復興にあたっては空襲で発生した膨大な量の灰燼処分という大きな問題が襲い掛かってきたからです。
この問題を『中央区史 下巻』(東京都中央区役所、昭和33年)でみてみると、
「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。復興の第一歩として(昭和)二十年九月からまず灰燼処理事業からはじめることになった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」
という惨憺たる有様でした。
この問題を解決する方法として、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返すこととし」という、灰燼を処理できるうえに、その事業費を回収できるという いわば一石二鳥のアイデアが採用されたのでした。
こうして昭和23年から中央区内の川が次々と埋め立てられ、浜町川についても、神田川口から汐見橋までの区間で昭和24年埋め立てを開始し、翌25年には川の北半分が消滅することとなってしまいました。
昭和27年撮影の航空写真(国土地理院Webサイトより、USA-M288-47【浜町川付近を拡大】)を見ると、南から北西方向にのびる浜町川が、北半分を埋め立てられた様子がよく分かります。
埋め立てにあたっては橋を撤去することになったので、鞍掛橋や汐見橋など浜町川に架かる橋が次々と消えていきました。
ですので、現在これらの橋の跡を見ても、地割から類推されるだけで、土地の凹凸などはありません。
しかし、川口に近い柳原橋と大和橋は違います。ここでは現在も橋を思わせる帯状の高まりが残っているのです。
私は埋め立てまでの時間がなかったために、この二つの橋が撤去されずにそのまま埋めっているのではないか、と見ています。
次回では見方を変えて、大和橋の痕跡を求めて交差点付近を実際に歩いてみましょう。
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