前回見たように、芥川龍之介の『妖婆』で主人公の新蔵がお島婆の妖力で殺されそうになった場所が鞍掛橋でした。
そこで、この橋がどんな橋なのか見てみることにしましょう。
鞍掛橋は中央区日本橋小伝馬町1丁目と同馬喰町1丁目の間をかつて流れていた浜町川に架かっていた橋です。
隣の橋は、上流側が竹森橋、下流側が緑橋でした。
この橋は『東京市史稿 橋梁篇第一』によると、元禄四年(1691)、「今川堀川開削」にともなって、龍閑橋、玉出橋、竹森橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋など14の橋とともに架けられたとされているのですが、それにしても「今川堀川」とはあまり聞かない名前です。
江戸の市中を流れる堀川には俗称や異名が多いのが常で、浜町川も難波橋(のちの小川橋)以南を浜町川、それ以北を新堀と呼ぶことがありました。
ここでも列挙されている橋の名称から、玉出橋までが神田堀(銀堀、のちの龍閑川)で、竹森橋以後は浜町川(さきほどの新堀)を指しているので、この逆L字形の堀川を今川堀川と呼んでいるのでしょう。
さらに鞍掛橋について江戸の町絵図を見てみると、橋の記載はあるものの名が記されていないか「土橋」とのみ記されているか、なのです。
また、『日本橋区史』には明治十五年府統計所載五十九橋をはじめ「鞍掛橋」に関する記事が複数掲載されているので、これを整理要約すると以下のようになります。
江戸時代の元禄四年(1691)に浜町川延長に伴って架けられた「鞍掛橋」ですが、安政4年(1883)には接続する神田堀(後の龍閑川)の埋め立てに伴って浜町川も緑橋より北側が埋め立てられました。
埋め立てられた部分の浜町川は わずかに溝として残るのみで、鞍掛橋もこの溝を渡る土橋になったのです。
明治時代に入っても状況は変わらず、長さ一間、幅五間五尺の土橋のままでした。
「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年)の鞍掛橋(赤○部分)部の筆写ですが、溝に架かる土橋の頃の様子がよく分かります。
明治16年(1883)には龍閑川(かつての神田堀)再掘削に伴って、これに接続する浜町川が再掘削されるとともに、神田側の柳原まで延伸されました。
これは、『千代田区史 区政史編』によると明治23年(1890)の東北本線秋葉原貨物駅(現在のJR秋葉原駅)開業が決定したので、鉄道と水運をつなげる狙いがあったようです。
これに合わせて鞍掛橋も再び架けられることになりました。ちなみにこの橋は、鉄製の高欄をもった木橋でした。(『中央区の橋・橋詰広場』)
さらに、明治44年(1912)12月に工費42,089.200円を費やして長7間、幅10.47間の鉄橋に架け替えられました。
この橋の姿が「鞍懸橋」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京日本橋区編(日本橋区、大正5年))に残されています。
鉄橋への架け換えは、ちょうどこのころ、東京市電の幹線である室町線(22系統:浅草橋-小伝馬町―室町-新常盤橋-丸ノ内一丁目、明治36年(1904)開業)が経路変更して鞍掛橋を通るようになったので、これに合わせた架け換えだと思われます。そして橋の南には市電の「鞍掛橋」停車場が設けられます。
ところで、江戸時代には「土橋」などの一般名詞で呼ばれていたこの橋に、「鞍掛橋」の名がついたのはいつのことでしょうか?
じつは、ようやく明治時代半ばのことで、地図で見ると明治二十八年東京十五区区分図がはじめです。
また、先に見た『日本橋区史』では明治十五年府統計を引用する中で「鞍掛橋」の名前を使用していました。
こうして、明治時代も半ばになってつけられた「鞍掛橋」の名が、市電の停車場名に採用されてからは広く知られるようになったのです。
『新式商業地図 日本橋』(磯村政富編(東京書院、大正3年))を見ると、鞍掛橋(赤四角部分)に名が記され、橋の上には市電路線、橋近くには停車場が確認できるでしょう。
ところで橋名の由来ですが、「そのむかし六本木の宿駅があって、この辺で駄馬に鞍を置いたため」(石川悌二『東京の橋』および『中央区の橋・橋詰広場』)と考えられているのです。
この橋がかつての小伝馬町と大伝馬町の境界にあり陸上交通との深い縁にちなんだ名前だといえるでしょう。
こうして、橋の名前さえない大通りから外れた裏町的場所だった鞍掛橋が、にわかに表通りの一等地へと一大変化を遂げたのです。
ようやく広く知られるようになったばかりの鞍掛橋を、大きな災害が襲います。次回は関東大震災で大きく生まれ変わった鞍掛橋を見ていきます。
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