前回見たように、400年の歴史を誇る浜町川で最後に架けられた浜洲橋、今回はその背景を探ってみましょう。
じつは浜洲橋周辺は、江戸時代から町屋が少なく、広大な大名屋敷が並んでいたのです。
『明治東京全図』の浜洲橋の架かる部分を見てみると、中洲橋の名がありますが、これは島津公爵邸への水路に架かる橋で、浜町川に橋は架かっていません。
そして、浜町川の中之橋から河口の川口橋まで、左岸(東側)が島津公爵家、右岸(西側)が松平子爵家(津山松平家)の広大な邸宅となっています。
さらにその周囲も町屋ではなく華族の邸宅が並んでいるのが確認できます。
このような状況は関東大震災まで続きましたので、人口は少なかったのです。
また、およそ100m下った河口部には浜町川の開鑿時から川口橋が架けられていましたし、100m上流には延宝年間(1673~81)以降は中ノ橋(組合橋)がありました。
しかし、関東大震災では華族たちの邸宅も多くは焼け落ちてしまいました。
その後、彼らの邸宅は山の手に移り、この地はほとんどが町屋へと変わったのです。
そしてこれに伴って地域の人口が大幅に増えることになったために、新しく橋をかけて利便性を向上させたのです。
それに加えて、私が見たところ、もう一つの見逃せない重要な理由があります。
それは有馬小学校の存在です。
明治6年(1873)に久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創設された有馬小学校は、新大橋通り沿いにありました。
震災で被害を受けて現在地に移転し、一帯にあった華族の邸宅がすべて町屋地に変わっって地域の人口も一気に増加したので、小学生の人数も自然と増加したと思われます。
ですので、浜洲橋創架には浜町川沿いの新しくなった小学校に子供たちが通いやすいようにという配慮があったのではないか、と私は想像するのです。
昭和19年撮影の航空写真を見ると、関東大震災から復興した街並みを見ることができ、びっしりと町屋が建ちならんでいるのがよく分かります。
そして浜洲橋が架けられたのは、日本橋浜町・日本橋蠣殻町2丁目の間で、着工が大正15年(1926)3月、完成が大正15年(1926)10月です。
この橋の形式はコンクリート・ラーメン桁(上路)橋で、橋長13.0m、幅員11.0m。東京市が補助線街路事業で工事費32,300円を費やして創架しました。
橋は高欄もコンクリート造、車道は木塊舗装、歩道はアスファルト舗装となっています。【『中央区の橋・橋詰公園』】
コンクリート製で、しかもラーメン桁の構造ですから、この橋は典型的な復興橋の一つといってよいでしょう。
ちなみに橋の名称の由来をはっきりと記したものを見つけることが出来ませんでした。
しかし、江戸時代以来、橋が所在する両岸の町から一字をとる事が多くありましたので、浜の字は浜町からとったものに違いありません。
では、洲の字はどこから来たのかといえば、浜町川河口にあった中洲からとったものと思われます。
というのも、蛎浜町から蛎の字をとると、上流にある蛎浜橋と名前が似てしまって紛らわしいので、これを避けたのでしょう。
また、中洲方面に向かうには、この浜洲橋か下流側の川口橋を使うことになるので、中洲方面に往来するのに通る橋として洲の字をつけたものとみられます。
こうして誕生した浜洲橋にはきっと元気に通学する子供たちの歓声が響いたにちがいありません。
ところが、この平穏な時代は長くは続きませんでした。
竣工からわずか19年で、橋は劫火に包まれてしまいます。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けたのです。
浜洲橋周辺も例外ではなく、再び一面の焼け野原となってしまいました。
昭和22年撮影の空中写真を見ると、空き地が目立っています。
黒っぽく見える街並みは空襲で焼けなかったところですので、浜洲橋周辺の白っぽい色合いから判断して、この付近はほぼ焼失したものと考えてよいでしょう。
周囲がすべて焼け落ちる中でも この橋はなんとか空襲の劫火にも耐え抜きました。
写真中央の浜洲橋を見ても、立派に復興に役立つ様子が見て取れます。
危機が去ったのもつかの間、今度は昭和24年には東京大空襲の灰燼埋め立てによって浜町川北半の埋め立てが始まります。
わずかに残った浜洲橋を含む浜町川南半も、首都高速道路6号線の浜町出口の用地となって昭和47年(1972)に埋め立てられたのでした。
昭和46年撮影の空中写真を見ると、まさに終わりに近づいた浜町川埋め立て工事の様子が記録されています。
こうして誕生から半世紀で、浜洲橋は浜町川と共に姿を消したのでした。
わずかな期間で姿を消した浜洲橋ですが、かつて橋のあった辺りは今、どうなっているのでしょうか?
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