高砂橋が二つある? 元高砂橋(もとたかさごばし)編 ②

前回みた、公園の片隅に見つけた謎の金属は何なのでしょうか?

今回はさっそく調査してみたいと思います。

まずは地図で探してみることからはじめましょう。

「携帯番地入東京区分地図 附東京郡部地図」伊藤正之助(新美社、1909)国立国会図書館デジタルコレクション【元高砂橋部分】の画像。
【「携帯番地入東京区分地図 附東京郡部地図」伊藤正之助(新美社、1909)国立国会図書館デジタルコレクション〔元高砂橋部分〕】

「携帯番地入東京区分地図 附東京郡部地図」(1909)を見ると、現在の久松児童公園部分が川になっていて、渡ると久松小学校があります。

しかし、よく見るとおかしなことに気づきます。今は道の南にあるのに北側になっているではありませんか!

そして高砂町側の地割りに注目すると、どうやら「高砂橋」と書いてある場所が今調査している不思議な遺構がある場所にあたっているとわかります。

「商業大地図 東京市日本橋区」中川辨吉(萬國製図協會、大正2年)国立国会図書館デジタルコレクション【元高砂橋部分】の画像。
【「商業大地図 東京市日本橋区」中川辨吉(萬國製図協會、大正2年)国立国会図書館デジタルコレクション〔元高砂橋部分〕】

さらに、「商業大地図 東京市日本橋区」(大正2年(1913))を見ると、久松警察の場所は今と同じようですが、何だか街区の形が方形ではなく歪んでいるうえに行き止まりの細い道があったりして、現在とはかなり違っているのが見て取れます。

そして、やっぱり久松小学校の位置が今より少し北にあるようで、警察署との間に町屋がある点も今と違っているようです。

さらに、「京橋区・日本橋区図」(昭和5~8年(1930~33)作)を見ると、街区は現在と同じ、久松小学校と久松警察署も今と変わらぬ場所にあるのでした。

そして、やはり現在の調査場所に橋があるのですが、名前が「元高砂橋」になっています。

ここまで地図を見た結果、調査地点には「高砂橋」あるいは「元高砂橋」という橋があったことがわかりました。

そして現在の久松児童公園がかつての浜町川の流路となっていたのです。

では、元高砂はしとはいったいどのような橋なのでしょうか?

またここを流れていた浜町川とはどんな川だったのでしうか?

昭和19年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、8921-C2-19 浜町川部分)の画像。
【昭和19年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、8921-C2-19 浜町川部分)】

昭和19年撮影の空中写真を見ると、画面中央に南北に溝が確認できます。これが浜町川です。

この橋の歴史を見るためにまず気をつけるべきことは、その名前です。

「京橋区・日本橋区図」(昭和5~8年(1930~33)作)にあった元高砂橋は「元」の字を冠しているのですから、別に高砂橋があるはずです。

よく見ると、この橋のすぐ北にある交差点に高砂橋の名が見つかりました。

つまり、新しい高砂橋ができた昭和初期に、名前を新しい橋に引き継がせて、前の高砂橋に元の字をつけたのでした。

なので、元高砂橋の名が生まれたのは昭和初期、それ以前は高砂橋の名で呼ばれていたのです。

ちょっとややこしいので、今回は高砂橋の名称はそのままで、元高砂橋は改称以前を「旧高砂橋」と呼んで区別することにします。

元高砂橋(旧高砂橋)は、東京都中央区日本橋富沢町と日本橋久松町を結ぶ、浜町川に架けられた橋でした。

そして、橋が久松町と高砂町(現在の日本橋富沢町の一部)を結んでいたことから高砂橋と名付けられたのです。

浜町川ってどこにあったの?ということで、浜町川についてまず見てみましょう。

浜町川は、神田川と箱崎川(埋め立てにより消滅)をつないで流れていた総延長1.8㎞の人工河川で、現在は埋め立てによって消滅しています。

「武州豊嶋郡江戸庄図」((寛永九年)『集約江戸絵図 上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写【浜町川部分】)の画像。
【「武州豊嶋郡江戸庄図」((寛永九年)『集約江戸絵図 上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写〔浜町川部分〕)】

その歴史は、元和年間(1615~23)に箱崎川から現在の人形町2丁目まで開削されたことに始まります。

もっとも古い江戸町絵図、「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)には大きく浜町川が描かれています。

その後、元禄4年(1691)に龍閑川開削に伴って小伝馬町まで延長されて、龍閑川と合流するようになりました。

そのころの様子を記した『御府内沿革図書』の元禄年中之形(1688~1704)に、高砂橋が記されるのが最も古い例です。

その後の絵図では無名橋としてですが、大半に旧高砂橋の位置に橋が記されています。

「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」安政6年 『集約江戸図 中巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版、昭和38)より【浜町川部分】の画像。
【「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」安政6年 『集約江戸図 中巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版、昭和38)より〔浜町川部分〕】

しかし安政4年(1883)に龍閑川が埋め立てられると、浜町川は再び小伝馬町までに行き止まりとなってしまいます。

そんな中でも旧高砂橋は存続しました。

また、「明治十五年府統計」には明治5年10月、工事費267円で橋長5間、幅員2間の「高砂町ヨリ久松町へ渡ル」木橋を架設したことが記されています。

ここ前で見てきたように、この橋は江戸の町中にあるごく普通の橋でした。

次回は明治維新後のこの橋の歩みを見ていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です