前回見たように、江戸の伝統を受け継いだ元高砂橋は東京大空襲で焼失してしまいました。
さらにそこに試練が訪れます。
空襲で焼失したままの元高砂橋ですが、さらに新たな問題が降りかかってきました。
それは空襲によって発生した膨大な灰燼の処分という難問でした。
この問題が戦後復興を阻む深刻な状況を生みます。
『中央区史 下巻』によると、「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態です。
昭和22年撮影の空中写真を見ると、町のそこここにみられる空き地に黒い小山がありますが、これは集められた灰燼のようです。
そこでこの問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となりました。
こうして浜町川の埋め立て工事が昭和24年から始まり、昭和25年に終了しました。
川がなくなるのですから橋が再度架けられることもなく、元高砂橋は東京大空襲で焼け落ちたままで浜町川と共に消滅したのです。
昭和25年撮影の空中写真を見ると、埋め立てが終了たばかりの元高砂橋付近が写っています(矢印部分、下流側の小川橋はまだ残っています)。
ここで改めて焼失前の元高砂橋の姿を見ていましょう。
『中央区の橋・橋詰広場』によると、戦前の元高砂橋の図面が残されています。
それによると、橋は伝統的な擬宝珠付きの江戸時代を彷彿とさせる橋でした。
親柱と軸柱の太さと高さを多少変えるところや、橋面には縦断方向に放物線勾配を入れ、横方向にも勾配をとっていること、手すりの断面形状が丸であることなど、「釘隠しなどの金具類に飾り職人の技を含め、宮大工の技術が生きていた頃の橋」(『中央区の橋・橋詰広場』)だというからびっくりです。
冒頭で見た丸い金属勢の台座は ぼんぼり型の橋灯のものですし、石垣もやはり橋台の上段部分にまちがいいありません。
この橋の様子を想像して描いてみました。
橋を富沢町側から見た図で、対岸は道を挟んですぐ久松小学校になっています。
学校の教室からもこの橋がよく見えたのではないでしょうか。
また子供たちが通学に使ったにちがいなく、にぎやかな声があふれる橋だったと想像できます。
また浜町川の水面に写る橋の姿は、この上なく美しかったに違いありません。
その姿を一度見てみたいと心の底から思うのでした。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。
引用文献:『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)
参考文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)
次回は高砂橋です。
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