前回見たように、大丸をはじめとして緑橋の周辺は江戸の一大商業地でした。今回はこの橋そのものについてみていきたいと思います。
前回にも触れましたが、最古の江戸町絵図「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)で描かれた浜町川は、「あふら丁」「しほ丁」手前で堀留となっていました。
その後、元禄6年(1693)の「江戸図正方鑑」からは無名ながらこの橋が記されているので、浜町川が延伸掘削された元禄4年(1691)には、この橋が架設されていたとみられます。
はじめて「緑橋」の名が記されているのは、「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年)がありますが、緑橋の下流側には汐見橋、上流側は川が堀留となっています。
続いて『明治東京全図』(明治9年)にも同様の様子が描かれています。
橋名の由来ですが、前回見たように通油町が「当初(照明用の)灯油を商う家が多かったことからの町名」(『新撰東京名所図会』)とあるのに続いて、「緑橋は通油町の大路より通塩町の大路に架する浜町川の橋をいう。(中略)その名の基づく所詳ならず、或は通油町に当れるを以て緑油の如し、などより来りしはいかが」と記しています。
はっきりと名前の由来はわからないものの、浜町川のうちこの橋より下流側左岸を「東緑河岸」、右岸を「西緑河岸」と呼ぶのはこの橋の名にちなんでいるのです。
このように、本通りを渡す緑橋は、地域のランドマーク的存在でした。
『携帯番地入東京区分地図 附東京郡部地図 日本橋区』(1909)にも上流側の鞍掛橋とともに緑橋が大きく描かれてることからも見て取れると思います。
『日本橋区史 第1冊』には、「緑橋 西は通油町と東は通鹽町との間に於いて浜町川に架す。同じく元禄四年の創架とす。現在の石橋は明治九年の架換にして、長六間、幅六間半あり。」とあり、同じく「明治十五年府統計」および大正四年十二月調査では、浜町川を通油町から通鹽町に架かる長6.00間、幅:6.25間の石橋で、明治9年12月竣工、工費2,252.178円と記されています。
この橋は「石台にして鉄欄を施せり」(『新撰東京図絵』)で、「橋上には歩道分離の縁石がみられる。親柱はみられず、パイプ型の柵高欄が設置されている。橋灯と一体で高欄と分離されているまた路面は、歩道部が石敷き、車道部ははっきりしないが、石敷きのようにみえる」(『中央区の橋・橋詰広場』)とされています。
この頃の写真(「緑橋」『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(1916))に残る姿からは、商業の一大拠点のランドマークといった雰囲気は感じられません。
それもそのはず、じつはこの橋の位置づけが大きく変わっていたのです。
緑橋は、明治44年(1912)12月に工費42,089.200円を費やして長7間、幅10.47間の鉄橋に架け替えられます。
幅が広いのは、市電の路線が通っているからです。
しかし、東京で市電が開通すると、東京の交通網に一大変革がおこります。
通油町周辺でも明治時代後半東京市電の幹線である室町線(22系統:浅草橋-小伝馬町―室町-新常盤橋-丸ノ内一丁目)が明治36年(1904)開業、程なく経路変更によって経由地が緑橋から鞍掛橋(写真、「鞍懸橋」『日本橋区史-参考画帖第1冊』(大正5年))に変わると、交通の中心は本町通りから国道6号(江戸通り)へと移ってしまったのです。
これに伴って浜町川と主要陸路(市電)の交点が緑橋から一本上流の鞍掛橋を通るようになりました。
鞍掛橋編でみたように、市電開通に合わせて鞍掛橋は大きな橋に架け換えられるとともに、橋の東には市電の「鞍掛橋」停車場が設けられます。
こうして商業の中心が少しだけ北に動くことになったので、緑橋は地域のランドマークとしての役割を終えることになりました。
これに追い打ちをかけるように、大正12年(1923)東京の街に関東大震災が襲来したのです。
この時、東京の下町は多くが劫火にのまれて壊滅的被害を受けますが、「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』)を見ると、緑橋周辺も再び一面が焼け野原となる甚大な被害を受けたことは容易に想像できるでしょう。
この時の緑橋の損傷程度は不明ですが、じつは復興事業では架け替えが行われていません。
しかし、やはり損傷が激しかったとみえて、震災復興事業がひと段落した昭和4年(1929)1月には、東京市によって橋長10.0m、幅10.8mの鉄筋コンクリート充腹アーチ橋に架け替えられています。
『中央区の橋・橋詰広場』によると、「袖高欄の一部を取り込む形で親柱が造られ、橋名版は水平に設置されている。高欄は、石造で枠が造られ、パネル化された柵をはめ込んでいる。」デザインで、いかにも地味で簡素ではありますが、復興橋で得られた技術がいかんなく発揮されているのが分かります。
この時の緑橋を想像図にしてみました。
かつてのすさまじい繁栄はすぎさったものの、長い歴史とともに、東京の中心にある橋としての存在感のようなものを感じずにはおれません。
ここまで緑橋の歴史をたどってきましたが、さらにこの橋には過酷な運命が待っていました。次回ではこの橋のその後についてみてきたいと思います。
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