前回見たように、大丸は地域のランドマークとなり、江戸を代表する名所にまでなりました。
しかし明治になると、少し風向きが変わってきます。
明治維新の余韻冷めやらぬ明治14年(1881)に大蔵卿に松方正義が就任すると緊縮財政のいわゆる「松方デフレ」を強行、これが引き金となって深刻な不況が起きてしまいました。
さらに追い打ちをかけるように、明治5年(1871)の新橋-横浜間の鉄道開通以来発展を続ける鉄道網の影響で、東京の商業の中心が次第に銀座方面に移ってしまい、看過できない状況になります。
これにともなって大丸周辺では問屋街化が進行していきましたので、小売りを主とする大丸は、次第に店舗立地が悪くなっていきました。
銀座進出を目指すも失敗、さらに明治22年(1889)には第十代当主が37歳で急逝して弱冠7歳で第11代目当主を継承するなど、次々と危機に見舞われて経営環境が次第に悪化していきます。
明治41年(1908)には経営の近代化を目指して株式合資会社大丸呉服店へ改組、本店を東京店に置くなどしましたがうまくゆかず、ついに明治43年(1910)には元来の基盤である関西に集中するために東京から撤退することになりました。
一時期は比類のない繁栄を謳歌した大丸呉服店江戸(東京)店ですが、ここに160余年の歴史を閉じることとなったのです。
長谷川時雨は繁栄に陰りが見え始めた大丸に「(店裏の)窓々の金網のこと」や「(正月の使用人への大盤振る舞いを指して)一年に一度の、この目覚ましい慰安的な、解放したようでその実解放しない、人目を眩くらます華々しいやり方」から、店の繁栄が「お店たなものの奴隷生活」に支えられた封建的・前近代的なものであることを鋭く指摘しています。
それはいみじくも大丸呉服店東京店の繁栄に終わりがくることを暗示することになります。
恐るべきことに、それと同時に大丸に依存した地域経済の崩壊を意味していましたので、皮肉にも彼女がこよなく愛した町が変貌することにつながっていました。
話しを大丸の歴史に戻しまして。
こうして明治43年(1910)に大丸は東京と名古屋の店を廃して関西へ撤退を決断しました。
そしてそこからの長きにわたる苦闘の末に、ようやく大正9年(1920)に呉服店から近代的なデパートへと生まれ変わることに成功します。
そうすると大正時代に誕生した大衆文化の隆盛を背景に急速に発展を遂げて、百貨店業界を代表する存在へとなっていきます。
その後、第二次世界大戦を乗り越えて再び東京に進出したのは昭和28年(1953)のことでした。
しかしその時に大丸が選んだのは旧地ではなく東京駅八重洲口だったのです。
そして、大丸の東京復帰の宣伝広告が、かつて通旅篭町に威容を誇った大丸江戸店の姿を全面的に使用したものだったのです。
これは、大丸江戸店の精神が受け継がれていることを高らかに宣言するものでした。
東京への再進出を果たしてから半世紀以上にわたって、東京の玄関口・東京駅で人々を迎えてきた大丸は、再び東京人のハートをがっちりとつかむことに成功したのです。
そして現在、IT革命以降の急激で激しい社会状況と経済環境の変化の中で、同業他社との合併などで次世代への発展の道を模索しています。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。
引用文献:『長谷川時雨全集』(日本文林社、1941~42)
参考文献:『日本橋横山町馬喰町史』有賀祿郎編(横山町馬喰町問屋連盟、1952)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、『長谷川時雨作品集』尾形明子編(藤原書店、2009)、『大丸三百年史』(J.フロントリテイリング、大丸松坂屋百貨店、2018)
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