前回見たように、史上初の歌舞伎作家として成功を収めた時雨。
しかし彼女の快進撃は留まるところを知りません。
今回は、彼女の更なる活躍についてみていきたいと思います。
歌舞伎作家として、また歌舞伎評論などでも活躍の場を広げた時雨ですが、彼女には盟友ともいえる分かり合える友がいました。
女流作家の岡田八千代です。
八千代の夫は画家の岡田三郎助、そして彼女の兄は日本近代演劇の父・小山内薫です。
兄や夫を通じて演劇や文芸・芸術関係の幅広い人脈を持つ彼女は、なにより歌舞伎の大ファン、時雨とすっかり意気投合したのです。
そして大正12年(1923)には時雨と八千代の二人が共同で同人誌『女人芸術』を創刊します。
『女人芸術』は、まだまだ活躍の場が限られていた女性作家たちに自由な活動の場を与えるべくつくられたのです。
創刊からわずか2号で関東大震災により中断しますが、今度は『青鞜』メンバーをブレーンとして迎え入れてパワーアップ、雑誌を見事に再興。
こうして再開した『女人芸術』は、幅広い層に読まれてビジネス的にも成功を納めたのです。
しかし、『青鞜』メンバーが女性の地位向上運動を強める中で、雑誌もこれに引きずられる形で内容が次第に左傾化すると、ついには政府から弾圧を受けるまでに。
三度の発行禁止処分を経て、ついには昭和7年(1932)に廃刊となってしまいました。
『女人芸術』は10年足らずの発行期間ですしたが、円地文子、林芙美子、大田洋子らを文壇デビューさせるとともに、新旧すべての女性作家たちの拠り所となるなど、日本近代文学史上、非常に重要な役割を果たしたのでした。
『女人芸術』によって作家への復帰を果たした時雨は、こうして女流作家たちの信望を集めて、文壇に比類ない地位を築き上げることになります。
一方で、作家としても地歩を固めた時雨は当時の人気女流作家たちとの仕事にも積極的。
その一例として『情話叢書2』(浅原米子編(三育社、大正5年))を見てみると、近松秋江をはじめとする女流作家たちとの短編集に参加しています。
その後、昭和8年(1933)には時雨の呼びかけで「輝ク会」を設立、機関誌「輝ク」が創刊されます。
ファンや作家仲間からは、廃刊となった『女人芸術』の後継誌として期待されますが、今度は逆に時局を反映して今度は右傾化。
そして、昭和14年(1939)には知識女性の銃後の拠点となすべく、「輝ク会」を「輝ク部隊」に発展させます。「輝ク部隊」では、時雨が慰問袋募集、慰問団派遣などに奔走したのです。
昭和16年(1941)には日本女流文学者会設立に奔走する中8月12日に発病、22日に急逝します。
61歳と働き盛りでのあまりにも突然の死だったのです。
ここまで長谷川時雨という女性の人生を概観してきました。
一読していただくとお分かりかと思いますが、あまりに唐突で振れ幅の大きな人生に強く戸惑いを覚えずにはおれません。
次回ではちょっと見方を変えて作家長谷川時雨という人を改めて深堀していきたいと思います。
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