生駒江美の戦い
前回まで見てきたように、生駒親敬の人生は、命を懸けた戦いの末に手にした藩が、あっという間に消滅し、くわえて家禄と賞典禄もすぐに廃止されるというものでしたので、かなり悲劇的といってよいでしょう。
しかし、振り返ってみると、江美もまた親敬と共に戦ってきたのでした。
慶應4年(1868)3月には夫親敬に連れられて風雲急を告げる出羽矢島に入っています。
さらに、同年7月28日の矢島の戦いの際には産後の肥立ちが悪く、当時まだ赤ん坊だった長女年子とともに陣屋内で養生していたところに落城の憂き目にあって、命からがら侍医小野元佳に連れられて赤子を抱えての逃避行さえ経験しています。
江美もまた、命を懸けてきたのです。
にもかかわらず、夫・親敬への過酷な仕打ちと、あまりにも突然の死(明治13年(1880)9月9日)に接した江美の胸中を思うと涙を禁じえません。
しかし、彼女は夫が残した華族・生駒家を何としてでも守ると決意したようです。
夫との間には、当時13歳の長女の年子(としこ・慶応3年(1867)1月1日生)と3歳の次女・巌子(みねこ・明治9年12月3日生(1877)〕の二人の娘を授かっていました。
華族令では爵位を継承できるのは男子のみと定められていましたので、江美は娘たちの成長を待って婿養子をとって家督を継承する決意を固めます。
実は、親敬には弟の道洽(1853~1913)がいましたので、こちらに継がせる選択もあったのですが、理由はわからないものの江美はこれを避けています。
ここから男爵夫人生駒江美の新たな戦いが始まりました。
幸い、夫親敬の晩年には、政府から下賜された広大な邸宅を転用して、多くの借家を建設して大家業を始めていました(下図および⑩話参照)。
当時、人口が急激に増加していた東京では借家需要は大いに高まっていましたので、親敬が亡くなったころには安定的な収入源となっていたと思われます。
生駒江美の実家
ここで生駒江美について振り返ってみましょう。
江美は、嘉永元年7月12日に出羽・上山藩8代藩主松平信宝(のぶみち)〔1817~72〕の四女として生まれました。
信宝は7男7女の子沢山(側室3名の子供を含む)、なかでも長男の信庸(のぶつね)は出羽上山藩9代藩主を継いで、慶應3年(1867)の江戸薩摩藩邸焼討事件に庄内藩とともに参加、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した人物です。
戊辰戦争では庄内藩とともに久保田(秋田)藩攻撃に参加、江美にとっては嫁ぎ先と実家とが戦ったことになります(②話参照)。
この点でも江美の心労は絶えなかったことでしょう。
お婿さん探し➀
親敬亡きあと家督を継いで女男爵となった江美ですが、どうやら活動を控えて娘たちの育成に集中していたようです。
そしてその三年後、長女年子がようやく15歳にまで成長しました。
いよいよ生駒家の婿探しがはじまります。
そしてまず候補に挙がったのは、生駒親承(ちかつぐ)でした。
親承は、慶應4年(1868)4月17日生まれ、生駒家分家生駒俊徳の長男です。
この生駒俊徳の家は生駒騒動の結果出羽矢島に移された後、生駒家と分けられた2,000石の小普請組旗本でした(①話参照)。
江戸後期以降屋敷は生駒宗家の隣にあるなど宗家と深い関わりを保ってきた間柄でもありました。
そして幕末において、俊徳は常に宗家の親敬と行動を共にし、秋田戦争でも親敬の配下となり奮闘した結果、500石の賞典禄を拝領しています。
維新後は士族になっていましたが、所縁も深く、歳も近いですし、家柄にも大きな問題がありません。
おそらく屋敷が隣であるうえに、両家ともに生駒一正が分祀した金刀比羅神社(⑨話参照)を篤く信仰していたこともあり、旧知の間柄だったのではないかと思われます。
生駒親承、家督継承
年子と親承が16歳となった明治16年(1883)に、ついに二人は結婚、江美が隠居して親承が生駒家第17代当主となったのでした。
明治16年(1883)3月16日付けで生駒家の家督を継承した親承は、明治17年(1884)7月には男爵に叙爵されます。
親敬の突然の死から3年余、生駒家を支えてきた苦労の日々もようやくここに報われることになって、江美の喜びもひとしおだったに違いありません。
しかし、ほっとしたのもつかの間、さらなる悲劇が江美を襲います。
次回では生駒男爵家のそれからを追ってみたいと思います。
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