偉大な祖先・信長を慕って【維新の殿様 織田家柏原藩(兵庫県)編】⑤

前回までみてきたように、柏原藩は小藩とはいえ、その働きは見事なものでした(③話参照)。

その一方で、明治維新後は柏原藩の活躍する機会はほとんどなかったことも見てきました(④話参照)。

今回は、少し視点を変えて柏原藩活躍の原動力となった小島省斎をはじめとする人々についてみてみましょう。

柏原陣屋(Wikipediaより2020.8.16ダウンロード)の画像。
【柏原陣屋(Wikipediaより)】

小島省斎と弟子たち

小島省斎(忠太)(1804~84)は丹波国氷上郡佐治村(現在の但南市青垣)出身、京都の猪飼敬所に師事した後、柏原藩主信古に召し抱えられます。

信民の治世に藩校「崇広館」の復興によって人材育成に努めて、後述する津田要や田辺輝美など多くの人材を輩出しています。

また、彼には猪飼門下のつながりで朝廷や長州、さらには幕臣まで幅広い人脈を持つ一面もありました。

田辺輝実(『現代氷上郡人物史』三丹新報社、1916 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【田辺輝実(『現代氷上郡人物史』三丹新報社、1916 国立国会図書館デジタルコレクション】

信親の治世に入って一気に藩政改革をなしたのも、省斎の存在があればこそ、という人物です。

そして、のちに明治政府の地方官として活躍する津田要(1847~1904)と田辺輝美(1841~1924)という藩重役の若い二人が藩をまとめ上げて、幕末を乗り切る原動力となったのでした。

とくに田辺は、明治38年に退職するまで至る所で治績をあげて貴族院議員・錦鶏間祇侯となった逸材です。

チーム織田

ここまで見てきたように、信親を藩主に迎えた柏原藩は、省齋が指導して津田要が現場指揮、田辺が若い藩士のリーダーとなって一つのチームとして見事に機能していました(③話参照)。

そして省斎の描いたプランを藩主から藩全体が共有し、ブレることなく進むことができたことが幕末に柏原藩が活躍できた最大の要因といってよいでしょう。

そのなかにあって、江戸脱出や鳥羽伏見での行動を見ると、藩主信親は自分の役割を理解して見事にこれを果たしているのがわかります。

しかし版籍奉還のあと、省斎が度重なる信親の要請にもかかわらず引退したことを手始めに、廃藩置県後には津田が新政府に出仕、田辺も当初は織田家の家令として残るもののやはり新政府に出仕してチームは自然解状態になってしまいます。

織田信親(ウィキペディアより2020.8.9ダウンロード)の画像。
【織田信親(ウィキペディアより)】

信親の織田信長顕彰

ここで、信親がおそらく自分自身で行った数少ない仕事を見てみたいと思います。

それは、柏原藩の幕末を支えたチームが自然消滅となってからの、信親知藩事時代のことでした。

江戸時代の後期に、柏原藩織田家と分かれた信雄4男信良を祖とする天童藩織田家が領国に作った織田信長を祀る神社を創建、のちに江戸の藩邸に分祀して小祠を祀りました。

そして明治2年(1869)にはこの小祠を神社にする請願を天童藩が明治政府に提出したのでした。

政府はこれを許し、神社創立の宣下を行っています。

総見寺塔(『古社寺巡り・美術行脚』斎藤隆三(博文堂、大正10年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【総見寺塔(『古社寺巡り・美術行脚』斎藤隆三(博文堂、大正10年)国立国会図書館デジタルコレクション】

天童藩(県)の動きに触発されたのか、明治3年3月、信親が織田祠を近江国安土山に建て、総見寺の僧を祠官としたいという請願を行ったのです。

織田信長を継いで天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は神となってそれぞれ立派な神社が造られて祀られています。

その一方で、織田信長は後継者秀吉が盛大な葬儀を行ったものの以降は信長が生前身代わりとした石の残る安土の總見寺がその菩提を弔うのみで特に祭典が行われることもなく、信長を祀る場所もない有様でした。

建勳神社拝殿(Wikipediaより2020.8.18ダウンロード)の画像。
【建勳神社拝殿(Wikipediaより)】

そして信親の請願は入れられて明治3年6月には近江国蒲生郡の安土總見寺に信長を祀る祠が完成して信長の祭典を初めて神式で行うこととなったのです。

さらに、明治3年(1870) 10月、新政府からは織田祠を改めて「建勲」の神号を贈られます。

そしてついに明治8年(1875)、建勲神社を別格官幣社に列するとともに、社地を京都の街を見下ろす船岡山に移したのです。

そして信親は、新しくできたばかりの建勲神社に金800両を献じています。

「織田信長画像」(『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【織田信長(『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション)】

長い余生

自分を支えてくれた省斎はすでに亡くなり、津田や田辺もそれぞれの任地で活躍していました。

そして信親は、貴族院議員を目指すことも華やかな社交界に出入りすることもなく、趣味の狩猟をするくらいで静かに暮らしたのでした。

信親は、人生を偉大な祖先・信長を顕彰することに捧げられたのかもしれませんし、はたまた部下たちに担がれたお神輿だったのかもしれません。

あるいは幕末の活躍で燃え尽きてしまった可能性だって考えられます。

いずれにせよ、謎が多い人物であるという点で、信親は織田家の最後を飾るにふさわしい人物だったと私は思うのですが、みなさんはどう思われますか?

この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。また、引用文献はその都度記載しています。

参考文献

『明治職官沿革表 歴官等俸給及定員表』(内閣記録局、明治19~27年)、

『柏原藩史』篠川直1899、

『柏原織田家臣系譜』篠川直1891、

『現代氷上郡人物史』三丹新報社1916、

『柏原町志』柏原町1955、

『角川地名大辞典28兵庫県』角川地名大辞典編纂委員会(角川書店、1988)、

『藩史大事典 第5巻近畿篇』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、1989)、

『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(霞会館、1996)、

『江戸時代全大名家事典』工藤寛正(東京堂出版、2008)

次回は柏原藩江戸屋敷と織田子爵邸の跡地を巡ります。

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