前回は松平(久松)氏が松山に入るまでを概観してきました。
今回は風雲急を告げる幕末の松山藩の歴史を見ていきたいともいます。
松平勝善
文化14年(1817)、松平勝善は薩摩藩主・島津斉宣の11男として生まれました。
天保3年(1832)7月に16歳で第12代松山藩主・松平定通の養子に入ります。
一方、勝善が継承した時はまさに天明大飢饉の真っただ中という極めて厳しい状況でした。
これに加えて、天保8年(1837)、大塩平八郎の乱で大坂出兵し、安政元年(1854)ペリー再来による幕府からの命令で大森~大井間を2か月間にわたって600人の藩兵で警護についています。
さらに、天保9年(1838)江戸城西丸焼失の復旧に3万両、弘化元年(1844)江戸城本丸焼失の復旧に7,500両、安政2年末には京都御所復旧に2万5,000両という具合に、幕府や朝廷は何かというと親藩である松山藩に献金を求めてきます。
悪いことは重なるのもので、嘉永3年(1850)江戸上屋敷焼失、安政元年11月の安政大地震で江戸藩邸と松山で大きな被害が出るなど、多額の出費が続きます。
養父で先代の定通は、伊予絣(かすり)伊予紙などの特産品を開発し、藩財政を立て直した藩中興の名君です。
災難続きの勝善の治世では、先代が苦労の末ようやく立て直した藩財政もあっけなく悪化したのは言うまでもありません。
松山城天守閣再建
このような状況にもかかわらず、勝善は弘化4年(1847)から5か年間で長年の懸案だった松山城の天守再建を強行します。
松山城の天守閣は養曽祖父松平定国の代に落雷で焼失していました。
現在の松山城を見ると、天守閣がいくつかの櫓とつながった複式の構造になっています。
ですから、天守閣の再建といっても本壇とよばれる天守廓全体を再建することになって、ほとんど造りなおすのと同じくらいの大事業なのです。
さらに、先に述べた安政の大地震で二の丸と三の丸にも大きな被害が出て、実質的に新しく作り直す大工事も行いました。
現在は松山市のランドマークとなっている松山城、観光資源としても計り知れない価値があるのですが、黒船来航時に造るというのはどうにもズレた感じですよね。
これで藩財政は火の車、勝善はこの危機にどう立ち向かったのでしょうか。
松山藩の財政危機
なんと勝善は、半分は自分が招いた財政危機を藩士の給料カットと、領地の町や村からの上納銀米だけで乗り切ったのです。
安政6年の1年間、藩士の給料を石高に関係なく最低限の給料を人数分だけ支給する「人数扶持給与」にしました。(『三百藩藩主人名辞典』)
当時(安政4年)の松山藩の松山藩収支を見てみると、年貢総収入が28万5,398俵なのに対して、支出は藩士の給料に当たる家中俸禄が11万7,304俵(41%)、江戸藩邸費6万俵(21%)、参勤交代・臨時支出費10万8,094俵(38%)(『角川地名大辞典 愛媛県』)となっています。
藩士の給料を1割くらいに抑えるわけですから、確かに劇的に藩の財政状況は改善します。
しかし当然藩士たちにも生活があるわけで、「1年間給料は最低賃金のみ」と無茶をいわれると、生活だけで手いっぱいとなってやる気がすっかりなくなってしまうのは容易に想像できるところ。
さらに前々から給料の三割カットが常態化していましたので、なおさらです。
これ以降、藩主の勝善が軍制改革に自主参加せよ、と呼び掛けても誰もついてこない有様となってしまったのでした。
松平勝善死去
こうして、本来は藩政改革や軍制改革に使うべき費用を、幕府や朝廷への献金と天守復興に費やした松山藩では、有効な改革を行うことが出来なかったのは当然の成り行きと言えるでしょう。
この状況で、安政3年(1856)に勝善は江戸藩邸で亡くなってしまいます。
長年の心労が祟ったのか、働き盛りといえる40歳の若さでした。
次回は、難問山積の松山藩を引き継いだ勝成の治世を見てみたいと思います。
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