松平勝成藩主就任
前回見たように、安政3年9月25日に養父勝善死去により家督を相続して第14代藩主の座に就きます。
松平勝成は、天保3年(1832)、讃岐国高松藩主松平頼恕の三男として生まれました。
弘化4年2月、16歳で第12代藩主勝善の婿養子として入っています。
勝成の藩政
前回見たとおり藩の財政は火の車ですが、幕末の動乱は広がるばかり。
にもかかわらず、安政5年4月には、異国船渡来に備えて武蔵国神奈川一帯を警備する幕命を受けました。
そこで神奈川猟師町海面に1年かけて台場を建設し、その後幕府に献納します。
先代藩主勝善の頃よりの献金の要請は続いて、安政6年には江戸城本丸炎上で復興費1万両を献金しました。
元治元年(1864)には禁門の変(蛤御門の変)に伴って幕府の命令で京都警備に藩兵出動させたりもしています。
このこともあって、勝成は孝明天皇に三度も拝謁するという栄誉に浴したうえに、歴代藩主で最高位となる従四位上に任ぜられると、もう有頂天となったのは言うまでもありません。
長州征伐
この後、将軍家茂は幕府への反抗的態度を改めない長州藩の武力討伐を決めて、21藩に出兵を命じます。
幕命を受けて元治元年11月、松山藩も長州征伐に出陣しましたが、長州藩主毛利親子の降伏を受けて戦闘に至らず終結しました(第一次長州征伐)。
その後も長州藩の反幕府的行動はやまず、ついに将軍家茂は再度長州征伐を命じます。
先鋒となった松山藩は、勢い込んで慶応2年6月に長州藩領の屋代島(周防大島)に攻め込みました。
しかしこの時、実際に出兵したのは松山藩のみという状況でしたので、将軍家茂が大阪城で死去すると、征伐は取りやめとなってしまいます(第二次長州征伐)。
この結果、幕府の弱体化は隠しようのない事実となって、事態は明治維新へと一気に向かうこととなったのです。
屋代島での大敗
ここで第二次長州征伐に出兵した松山藩に話を戻しましょう。
勢い込んで攻め込んだものの、友軍は来ずとあってすっかり軍紀が緩んだ松山兵、屋代島で略奪放火まで働く有様です。
そこに、高杉晋作率いる奇兵隊が松山兵の迎撃に向かいます。
松山兵は未だに火縄銃を使っていたのに対して長州は最新式のゲベール銃、士気にも天地の差がある上に、実戦経験のない松山兵に対して奇兵隊は容赦なく奇襲を仕掛けます。
こうして完膚なきまでに叩きのめされた松山兵は屋代島から逃げかえり、長州兵の逆上陸におびえることとなったのでした。
そこで、将軍家茂が死去すると、幕府の許可を得て屋代島に奥平貞幹と矢島大之進を謝罪使として派遣、長州の林平七と交渉して和議を成立させたのでした。
勝成の隠居
さて、前回見たように、もともと藩財政は極度に悪化していた中での長州征伐でしたから、費用はすべて上方商人からの借用金で工面せざるを得ませんでした。
そしてその返済は、またも領内の村や町からの上納銀米と藩士給与のカットです。
もともと藩士の給与は7割渡し(三割カット)が常態化していたのですがこれでは足りず、5割渡し(五割カット)にまで引き下げられますがこれでも足りず、さらに慶応2~3年7か月間は人数扶持給与(藩士の給料を石高に関係なく最低限の給料を人数分だけ支給する)ことでようやく返済したのです。
このような状況でしたので、長州征伐の失敗と屋代島での行為の責任を取る形で慶応3年9月に勝成は隠居、かわって定昭が第14代藩主を襲名しました。
長州征伐では松山藩兵の旧態依然たる装備と戦争経験を持たぬ未熟さが目立って軍事的には役に立たないことが白日の下にさらされてしまったのは当然かもしれません。
財政は破綻寸前、軍事的にも大敗北で体面はズタズタ、それでも松山藩は佐幕を貫こうとします。
次回では、松山藩の幕府に向けた届かぬ思いを見ていきたいと思います。
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