前回見たように、とうとう松山藩は朝敵とされてしまいました。
今回は、このピンチを松山藩が どやって乗り切ったのかを見ていきたいと思います。
藩主謹慎
この状況で、先代藩主勝成は松山藩出身の高名な儒者で藩主顧問を務める三上是庵に今後の相談をしたのでした。
そして相談を受けた是庵は、徹底した新政府への恭順論を提案します。
その内容は、勝成と定昭は道後の常信寺で謹慎蟄居したうえで十五万石の領地を朝廷に献上して「他意のない衷情を披歴」しました。
そのうえで、これまで藩のとった措置を陳謝して新政府に許しを請う、というものだったのです。
これははっきり言って全面降伏と言ってよい内容でした。
この案を勝成と定昭は受け入れて、さっそく道後の常信寺で謹慎蟄居して新政府への恭順を示します。
そして是庵の案にそって目付藤野正啓と藩儒・大原観山が中心となって藩内をまとめあげたのでした。
ちなみにこの大原観山の長女八重が同じ松山藩士正岡常尚に嫁いで生まれたのが正岡子規です。
松山占領
そして朝廷の追討を受けて松山城下に土佐藩兵が進駐して占領されることとなりました。
土佐藩による占領政策は寛容なものであったうえに軍規も厳しかったこともあって大きなトラブルのなく、大変平和なものだったと伝えられています。
これは土佐藩が松山藩とは隣接しているとともに歴代藩主で姻戚関係にあって長年にわたり友好関係を築き上げていたことが理由のようです。
このとき、宇和島藩からも松山へ兵を派遣していますが、松山城下には入らず郊外でとどまりました。
さらに、長州藩は兵を派遣する前に土佐が進駐していましたので、代表を派遣するにとどまらざるをえなかったのです。
考えてみると、長州征伐と屋代島での一件(④話参照)があるので、もし長州藩兵が松山を占領していたらと思うとぞっとします。
このあたりも、是庵と観山がいろいろと根回しをしたのでしょう。
そして観山が土佐藩と折衝して、政府からの赦面が出た5月をもって引き上げたのでした。
勝成再勤
新政府への謝罪が認められて、ようやく松山藩へ新たな命が下されます。
慶応4年(1868)5月22日、定昭は蟄居、勝成は再勤を命ぜられて第15代藩主として復職するとともに定昭には改めて蟄居処分が下されたのです。
それに加えて15万両の献金が課されることとなりました。
藩主を再勤した勝成は、7月6日には朝廷の勧告に従って松平姓から久松姓に戻していますが、これも政府のご機嫌取りの一環でしょう。(①話参照)
改姓にともなって、家紋も松平の三ッ葉葵から菅原の梅鉢へと改めました。
江戸時代を通じて掲げてきた葵の御紋を捨てる、という大変な決断です。
そして8月23日には早くも15万両の献金を完納していますが、そしてその費用はまたも領内の村や町からの上納銀米と藩士給与のカット(慶応4年~明治2年の1年3か月間の人数扶持)でひねり出したのでした。(③話・④話参照)
そして明治元年(1868)11月22日に藩政改革に着手、骨董的とも言われた軍制をはじめ藩政の近代化と効率化にようやく着手します。
なんとか朝敵の名を返上することに成功し、取り潰しを免れた松山藩、しかし歴史の荒波はまだまだ続きます。
次回では、その後の松山藩と松平(久松)家を見ていきましょう。
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