前回まで日本全国にその名を轟かした「津山の洋学」がいかに豊かで多岐にわたるものであったかを見てきました。
今回は、洋学の町・津山を生み出すに至る背景を知るために、津山松平家の歴史をたどってみましょう。
結城秀康(ゆうき ひでやす・1574~1607)
津山松平家は、徳川家康の次男・結城秀康に始まります。
家康の長男・信康は武田家への内通の嫌疑で切腹していますので、秀康が嫡子ということになりそうなものですが、三男秀忠が嫡子となりました。
これは、秀康の生母が身分の低い人だったからだという説が有力です。
そして、小牧長久手の戦いの講和のあと豊臣秀吉の養子、実質的には人質となったのはご存じの方もおられるのではないでしょうか。
その後は九州征伐で軍功をあげるなど、ついには秀康の睨まれただけで誰もが声を失うといわれる武勇の将となります。
勇将・秀康
秀康の勇猛さを示すエピソードをみてみましょう。
天正15年(1587)、秀吉の九州征伐で初陣しますが、はやくも豊前岩石城攻めで先鋒を務めたうえ、日向平定では抜群の戦功をあげて、翌天正16年(1588)には豊臣姓を授けられています。
また、秀吉没後に加藤清正(1562~1611)・福島正則(1561~1624)ら武断派七将が石田三成(1560~1600)討伐を行った折に家康邸に逃げ込んだ三成を、近江まで送り届けるという極めて危険な役目を果たしています。
豊臣恩顧の武断派大名たちを一人で抑え込む信頼を得ていたことからも、秀康の力量と厚い信頼がうかがえるのではないでしょうか。
ちなみに、この折に三成が感謝の気持ちを込めて贈ったのが名刀・石田正宗です。
関ヶ原の戦い以後
その後、天正18年(1590)には結城晴朝の養子となって結城姓を名乗るようになり、関ケ原の戦いの折には上杉景勝軍の西上に備える役割を果たしました。
この軍功により、越前一国68万石の大大名となり、北ノ庄(現在の福井市)に入部、姓を結城から松平に戻しています。
秀康にしてみれば二代将軍秀忠は弟、世が世なれば自分が将軍でもおかしくはないところ、不満がないはずがありません。
だからこその好待遇で、「制外」とも称される御三家をしのぐ家柄とされたわけです。
津山松平家の源流、越前松平家にとって最初の不幸は、秀康が若干34歳で死去したことかもしれません。
松平忠直(まつだいら ただなお・1595~1650)
そして秀康死去にともなって、わずか13歳の長子忠直が慶長12年(1607)に福井藩主を襲名します。
秀康が長く患って、藩の体制が整わぬうちの死去でしたので、幼い君主・忠直の元では家中が安定せず、ついにはお家騒動にまで発展してしまったのです。
これが世にいう越前騒動で、徳川家康と秀忠両御所の全面介入でようやく収まったのでした。
忠直は父譲りの武勇好きに加えてお家騒動という内政の失敗からのあせりもあったようで、初陣となる大坂冬の陣では張り切り過ぎて大失敗を犯します。
前田利常や井伊直孝と先陣を争って真田丸に攻めかかり、真田幸村こと信繁隊から激しい銃撃を受けて大きな損害を出してしまいました。
このことで家康からお叱りを受けるのですが、やはり孫がかわいいのか、手厚いフォローがあったのは幸運といえるでしょう。
しかし忠直は失敗に懲りるどころか逆に発奮、大坂夏の陣では真田幸村を打ち取ったうえに大阪城内まで攻め込む大功をあげます。
これだけの軍功を挙げたのだから恩賞は大きいかと思いきや、なんとほとんどなし!
すでに大大名ですし、徳川の一門でも中枢の家柄、さらに二代将軍秀忠の娘を正室に迎えているところに、先のお家騒動のしくじりを考え合わせると、それほどひどいものではないと思えるのですが…。
しかし忠直は、この件で抑えきれぬほどの不満を持つようになって、家康死後には参勤交代を怠るなど幕府に反抗的な行動が目立つようになってしまいます。
かばってくれるおじいちゃん・家康も亡くなっていますので、これには幕府も強い処罰を行うのはある意味当然のこと、元和9年(1623)には改易されて豊後国萩原に配流されました。
この辺りの事情は菊池寛『忠直卿行状記』で広く世に知られるところです。
そして忠直の嫡男光長(当時は仙千代)は越後国高田に転封となり、秀康の次男で越後国高田を領していた忠昌を福井に移して継がせることとなりました。
そしてこの処置が、後々250年にわたって津山松平家を縛り付けることになっていくから驚きです。
というのも、結城秀康から始まる越前松平家の本流は津山松平家であり、福井松平家はその分流であるという考え方が成り立つわけです。
その証拠に、結城秀康の数ある遺品の大半、例えば天下の名刀・「童子切安綱」、天下三槍の一つである結城家の象徴・「御手槌」、名刀・石田正宗、「剣大」の合印と、多くの歴史的名品を津山松平家が所持し守っていました。
こうしたわけで、津山松平家は福井松平家を何かとライバル視し続けることになったのは、ある意味当然なのかもしれません。
松平光長(まつだいら みつなが・1615~1707)
さて、忠直改易後の処置で越後国高田藩26万石の藩主となった光長ですが、藩主を57年もの長きにわたって務めました。
当初は城下町や港の整備などをおこなって、松平忠輝から引き継いだ越後高田藩の基礎を築き上げて藩は大いに栄えます。
しかし江戸在勤のために長い間領国経営を家臣に任せきりにしたために、治世の末期には家臣内の対立が激化、ついには「越後騒動」とよばれる御家騒動に発展、その責任を問われて光長は改易されて伊予松山藩預かりになりってしまいます。
またのお家騒動、確かに今回も領国経営への関心の低さが招いた事態なのは間違いないのですが…
一説によると、五代将軍綱吉が、自分の将軍就任に反対した光長への意趣返しに、騒ぎを蒸し返して大きくした、なんてことも言われるかなり政治的な事件なのです。
その後、貞享4年(1687)には赦免されて江戸にもどり、そのまま92歳の生涯を閉じました。
松平宣富(まつだいら のぶとみ・1680~1721)
その光長が赦免された後の元禄6年(1693)に養子に迎えたのが播磨国姫路藩主の越前松平長矩の三男宣富です。
元禄10年(1697)に光長の隠居に伴って家督を継いだ宣富は、元禄11年(1698)に美作国津山10万石を与えられ津山藩主となります。
なんだかんだ言っても徳川将軍家の兄にあたる家柄ですので、家名存続を優先させた結果なのでしょう。
こうして越前松平家はようやく津山という安住の地を得て、約170年間にわたって支配することになったのです。
ここまで越前松平家が紆余曲折を経て津山に入封するまでを見てきました。
しかし、じつは津山を作ったのは津山松平家ではなく、森家です。
次回では、津山藩を開いた森家の多難な歴史についてみていくことにしましょう。
コメントを残す