前回は津山入封までの津山松平家の歴史を見てきました。
しかし、津山を作ったのは津山松平家ではなく、それ以前の領主・森家なのです。
そこで今回は、津山藩を開いた森家の多難な歴史についてみていくことにしましょう。
森家入国前の美作
美作国は豊臣時代、備前国に本拠を置く宇喜多秀家の領地でしたが、関ケ原の戦いで西軍についた宇喜多家は改易されました。
代わって小早川秀秋が旧宇喜田領に移封されますが、ほどなく秀秋が急死して小早川家は断絶すます。
さらに代わって信濃国川中島から森忠正(もり ただまさ、1570~1634)が美作一国18万6500石の国主に任ぜられて慶長8年(1603)に入封しました。
森家とは
森家は信長・秀吉・家康に仕えた美濃出身の大名です。
忠政の父・可成(よしなり、1523~70)は美濃国金山城主として斎藤道三に仕えたのち織田信長の家臣となり軍功を挙げた勇将でした。
そして近江国志賀郡(現在の滋賀県大津市)宇佐山城の城主となったときに、浅井朝倉連合軍に攻められて討ち死にしてしまいます。
ところで、可成には、長可、蘭丸、坊丸、力丸、忠政の男子がいました。
このうち長男の武蔵守長可は「鬼武蔵」の異名をとる武勇の将でしたが、小牧長久手の戦いで戦死しています。
それより先、森蘭丸は小姓として織田信長に仕えその寵愛を得ますが、本能寺の変で弟の坊丸、力丸と共に討ち死にしたのはみなさんもよくご存じではないでしょうか。
こうして、森家の男子が次々と戦に命を落とすなかで、偶然本能寺の変を免れた末っ子の忠政が家督を継ぐことになります。
関ケ原の合戦の折に信濃国海津城主だった忠政は、徳川秀忠のもと上田城で真田昌幸・信繁(幸村)親子と戦って徳川家康の勝利に貢献しました。
その軍功から美作一国の国主となったのです。
森家時代の津山藩
森忠政は美濃国兼山や信濃国川中島に築城した実績を持つ、城造りを得意とした武将でしたので、美作入封と同時に津山盆地の中央に位置する鶴山に築城し、城下町を造りました。
また国中総検地をおこなうなど、領国の経営体制を整えたのです。
この鶴山(津山)城、城造りの名手忠政が心血を注いだ結果、とてつもない規模になりました。
ちなみにこの巨大城郭は、武家諸法度が出されて城の普請には幕府の許可が必要になったために、築城途中で工事は強制終了となりましたので、じつは未完成。
とはいえ、その威容は備前丸を残して石垣のみとなった今でも健在で、津山のシンボルとなっています。
忠政の跡を継いだ長継(ながつぐ・1610~1698)は城下町の拡張整備、山林検地、用水路の開削など藩の基盤を整備し、領内の社寺復興整備への援助を行うなどして藩政の基礎を作り上げます。
忠政、長継親子が作り上げた津山藩の藩政のシステムは、幕末に至るまで継承されていきました。
長継以降、長武(ながたけ・1645~1696)、長成(ながなり・1671~1697)と続きますが、長成が元禄10年(1697)に夭折してしまいます。
急遽、長継の第二十四子衆利を後嗣に立てますが、この衆利も将軍御目見え前、つまり藩主就任前に急死してしまい、ついに元禄10年8月に森家は改易されてしまったのです。
このあと、前回見たように、元禄11年(1697)1月14日に松平宣富が美作国のうち10万石を領して津山藩主となりました。
ここに越前松平家の流れをくむ津山松平家津山藩が誕生したのです。
次回からは、いよいよ松平家津山藩の歴史を見ていきましょう。
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