《最寄駅:東京メトロ千代田線・湯島駅、JR山手線・御徒町駅、都営大江戸線・上野御徒町駅、東京メトロ銀座線・上野広小路駅》
津山松平家十一代目当主松平康民は、明治9年家督相続時には本邸を日本橋区蠣殻町の蛎殻邸としていましたが、明治17年以降は本郷区龍岡町に邸宅を構えて本邸にしています。
さらに康民は東京市内に、津山藩高田下屋敷に由来する牛込区喜久井町に6千坪の家作、本郷区高砂町に807.71坪の家作、駒込林町に宅地234.00坪・畑198.066坪と宅地227.00坪・畑4.282坪の2か所の家作など(『東京市及接続郡部地籍台帳』)広大な土地を保有していたほか、熱海に別荘を構えていました。
今回はこのうち、本郷区龍岡町の本郷邸跡を歩いてみましょう。(グーグルマップは松平子爵家本郷邸跡に建つ文京区教育センターを示しています。)
湯島切通
スタートは東京メトロ千代田線湯島駅3号出口です。
ここを出ると、目の前には春日通と昌平橋通が交わる天神下交差点、ここにはJR御徒町駅北出口や都営大江戸線上野御徒町駅、東京メトロ銀座線上野広小路駅から春日通りを西に300mほど進んだところ、歩くと5分くらいの距離でしょうか。
それでは、春日通りの北側を、西方向の後楽園方面に歩いていきましょう。
歩きだしてすぐに、緩やかな上り坂がはじまりました。
これが湯島切通しで、かつて石川啄木が通勤に毎日通った坂道です。
『一握の砂』所載の、この坂を詠んだ「二晩おきに夜の一時頃に 切通の坂をのぼりしも 勤めなればかな」の歌碑が道の南側、湯島天神石段脇に建っていました。
朝日新聞で歌壇の選者となった啄木が、深夜にこの坂を上って本郷の下宿・喜之床に帰っていたのは彼の晩年、結核を発症している身で真夜中に一人でこの坂を上ったのかと思うと、歌が染みて涙が出てきます。
さて、道の南側には、高い石垣の上に木造の本殿が見えますが、これが湯島天神です。
よく見ると、見えているのは本殿の後ろ、つまり本来の参道は反対側にありました。
つまりこの坂道は、江戸時代に本郷の台地上と下谷をつなぐために湯島台地を削って作った坂道なのです。
じつはこの湯島天神下は、宇田川玄随が隠居所とした場所で、孫の麟祥とここで暮らしていました。
おそらく神社下の道を少し入ったところが玄随の旧居跡、ただし安政地震で建物が被害を受けたので、切通坂をはさんだ反対側、現在の湯島ハイタウン南東隅前の歩道辺りに引っ越しています。(以上『津山市史』)
さらに、湯島天神は南北朝期に創建され、文明10年(1478)に太田道灌が再興したという古社で、現在も学問の神として広く信仰を集めていて、テレビでご覧になった方も多いのでは。
ちなみに、湯島天神といえば江戸っ子達には富くじで有名、その抽選日は「突く日には湯島わくほど人が出る」と川柳に読まれるほど賑わいました。
湯島切通と津山藩
また、湯島天神下は津山藩が誇る蘭学者・宇田川阮甫の隠居所があったところで、孫の麟祥とともにこの地で暮らしていました。(『津山市史』)
その後は麟祥の屋敷となったので、津山藩士にはちょっと馴染みのある場所、康民もそのことを知っていたのかもしれません。
湯島切通の坂道をさらに登っていきましょう。
湯島ハイタウン前を過ぎ、さらに湯島天神入口交差点を越えると、ツタの絡まる「ステーキしのだ」の向こうに鋭角に北方向へと曲がる曲がり角が見えてきました。
松平子爵家本郷邸跡への曲がり角 松平子爵家本郷邸跡へ続く道
ここを右に曲がって細道を進むと、西方向にのびる路地が見えてきます。
この辺りからが旧湯島切通町の松平子爵家保有地で、行き止まりとなった先をよく見ると、建物の向こうに古びた石垣が見えてきました。
北方向に向かう細道に戻って、さらに先に行くと、左手に再び枝分かれした路地、更に行くと右に緩やかな下り坂、その北に大きな木々が茂る文京区立切通公園があって、保育園児たちの歓声が響いています。
目を前方に転じると、道がクランク上に曲がるその場所に、厚みを持った立派な高い塀が目に飛び込んできました。
この塀こそ岩崎邸の西側を区切る大塀、存在自体が威圧感を感じずにはおれません。
この道が少し狭まった場所を抜けると、少し開けた感じとなって、その先に大きな建物が見えてきました。
松平子爵家家作地の南端 松平子爵家家作地南端、境界の石垣 松平子爵家本郷邸跡南東隅と旧岩崎家大塀
松平子爵家本郷邸跡を歩く
この場所からが、かつての松平子爵家本郷邸で、現在は文京区教育センターとなっています。
ちょっとおじゃまして聞いてみたところ、文京区教育センターとは、教員研修や児童発達支援、自然科学や情報科学教育など、多岐にわたる活動を行う、まさに文京区の教育全般を担う中核施設で、2015年に完成したとのこと。
さすがは教育の中心地・文京区、ものすごい力の入れように大いに感心しました。
文京区教育センター 松平子爵家本郷邸南端、麟祥院の石垣(東から) 松平子爵家家作地にのびる麟祥院の石垣 松平子爵家本郷邸南端、麟祥院の石垣(西から)
さらに丁字路を左へ曲がって文京区教育センター沿いに西へ進むと、立派な石段を境に道が上下に壇になっている不思議な光景が目に飛び込んできました。
この石垣は、道の左手に建つアパートの手前でL字状に折れ曲がって、南方向へずっと続いています。
さらに二段になった道を西に進むと、一番奥の部分に取って付けたような小さな坂道があって、上下の道がつながっているではありませんか!
この部分が松平子爵本郷邸の南西部分となっています。
ちなみに、上の段の道を進むと、迷路のような小道を抜けて進んだ先に、麒祥院に行くことが出来るのですが、二段の道は松平子爵本郷邸跡と麒祥院保有地が別々に開発されてた結果出来上がったという訳です。
散歩に戻って、文京区教育センターに沿って進みましょう。
この敷地はすべてがかつての松平子爵本郷邸で、十字路に出てきましたが、西側に建つマンション三棟部分も松平子爵家の保有地でした。
十字路を今度は右に曲がってみましょう。
文京区教育センターの正面を通り過ぎて、切り石の立派な塀のある木々が生い茂る豪邸が見えますが、これらはすべてかつての松平子爵本郷邸でした。
ちなみに、道の左側は岩崎家の保有地で、一時期その一角に日本画家の鏑木清方が住居兼アトリエを構えていました。
この場所は現在、三菱資料館となっています。
正面に岩崎邸の大塀が見える丁字路を、右に曲がって南に進むと、先ほど見た松平子爵家本郷邸南東角に戻ってきました。
松平子爵本郷邸跡地の北東隅 松平子爵本郷邸跡地北端の道
松平子爵家本郷邸について
少し戻って先ほど見た文京区立切通公園まで進んで、休憩がてら松平子爵家本郷邸について整理してみたいと思います。
「小石川 谷中 本郷絵図」によると、龍岡町部分は越後高田藩榊原式部大輔(政愛)の屋敷でした。
ちなみに、「明治東京全図」では榊原家屋敷がそのまま丹後国田辺藩牧野弼成の屋敷となっています。
また一方で、旧岩崎邸の説明板によると、榊原家屋敷東半分は一時期西郷隆盛と桐野敏明の邸宅だったものを、岩崎家が購入し本邸としたとのこと。
また、本郷邸の裏に広がる広大な加賀藩邸は、現在の東京大学なのはみなさんもご存じでしょう。
「小石川 谷中 本郷繪圖」〔部分〕戸松昌訓(尾張屋清七、1853)国立国会図書館デジタルコレクション 「明治東京全図」〔松平子爵家本郷邸部分〕明治9年国立公文書館デジタルアーカイブ
東京大学の敷地に沿って800mほど行くと、名高き赤門がありますので、気になる方は行ってみてください。
話しを松平子爵本郷邸に戻して、敷地の南西部に見られた石垣は、麒祥院のものとみられます。
石垣は麒祥院の北東角から敷地の縁に巡らされていますので、旧湯島切通町で建物奥にのぞいていた石垣も、一連のものとみてよいでしょう。
ちなみに、「小石川 谷中 本郷絵図」では湯島切通町部分は、濱田三次郎、後藤与兵衛、佐野武兵衛の屋敷地となっています。
前に浜町中屋敷の段でも見ましたが、明治時代の初めに松平子爵家は藩邸の整理を行って、深川西大工町と谷中本村に抱屋敷(私有地)や砂村新田に広大な抱地(私有地)を処分、そのうえに日本橋区の蛎殻邸も譲渡したのです。
慶倫から康倫、そして康民と、津山松平家は当主が相次いで変わったことで、相続に多額の費用を要したと想像できます。
そして、大名から華族へと地位が変わることで社会的役割が大きく変化したのに合わせて、家産を整理して時代に合った新しい財産構成に更新する必要があったのでしょう。
こうして誕生した松平子爵家本郷邸は、松平男爵失踪事件の舞台にもなっています。
大正時代元年時点で、松平康民は東京市本郷区龍岡町8番地に本邸1,059.87坪、さらに同町に宅地6筆合計1,316.63坪、加えて隣接する同区湯島切通坂町に宅地2筆合計852.19坪の保有が確認できます。(『東京市及接続郡部地籍台帳』)
これらをすべて合わせて、松平子爵家本邸を「三千坪の豪邸」(3,228.69坪)と呼んでいたのでしょう。
この本郷邸ですが、松平康民が大正10年に没すると、跡を継いだ康春は目黒邸を本邸とするようになります。
松平子爵家目黒邸は「三千坪の豪邸」とよばれる広大な邸宅でしたが、本郷邸も同じように呼ばれていたことを勘案すると、華族の邸宅としてこれくらいの規模がふさわしいと認識していたのかもしれません。
主を失った本郷邸は、昭和11年撮影の空中写真で見ると、敷地はそのままですが、建物がすべて取り払われて建物基壇がむき出しになっているのが確認できます。
これは康春が本郷邸の土地を処分しようと準備していたのかもしれませんし、譲渡先が土地の利用方法を決めかねていた可能性もあります。
さらにこの状況は、昭和11年(1936)撮影の空中写真でも変化していません。
昭和22年(1947)、昭和32年(1957)と、まわりは復興して住宅などが建ち並び、湯島切通町の土地にも住宅が建っていくのに対して、本邸部分は空き地のままとなっています。
昭和11年撮影空中写真(国土地理院Webより、B29-C3-59〔部分〕) 昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-M389-149〔部分〕) 昭和32年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-M1010R1-56〔部分〕)
戦後の土地利用について
本郷邸の跡地は、一時期学校に利用されたあと、昭和61年(1986)にはこの地に4階建て延べ床面積8857.69㎡のスポーツ施設・文京区総合体育館が作られました。
さらに、この文京区総合体育館も施設老朽化のために現在は本郷7丁目に新築移転し、その跡地に平成25年(2015)文京区教育センターが設立されています。
無縁坂から松平子爵家本郷邸に向かう道 無縁坂
岩崎邸と無縁坂
松平子爵家本郷邸についてみてきましたが、そろそろ散歩に戻りましょう。
切通公園の北口を出て右に曲がって北へと進みます。
岩崎邸の塀に沿って進むと、かつての松平子爵本郷邸、さらに三菱資料館を通り過ぎて、丁字路に出てきました。
ここを右に曲がると、レンガ塀が続く美しい坂道に出てきました。
これが名高き無縁坂、森鴎外『雁』で僕と岡田が下った坂、作品ではこの坂と周囲が描かれて、明治のこの辺りの雰囲気を今に伝えてくれています。
また、さだまさし作詞作曲の名曲『無縁坂』の大ヒットで再びその名を全国に知られましたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
無縁坂の下り口には、宝永年間(1704~11)建立の本堂が土蔵造りという講安寺があります。
講安寺の前を通って無縁坂を下ると、目の前に不忍池が見えてきました。
坂を下って右に曲がれば、重要文化財の旧岩崎邸に至りますが、ここは直進して不忍池西の信号で不忍通に出て右に曲がり、次の池之端1丁目の信号で不忍通から分かれて昌平橋通を南下して100mほど進むと、スタート地点の春日通りと交わる天神下交差点に戻ってきます。
坂道の多いコースでしたが、およそ1時間の散歩でした。
近くには不忍池や恩賜上野公園、寛永寺、上野動物園や東京国立博物館など見どころがいっぱいありますので、ぜひ足を延ばしてみてください。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文家:
「小石川 谷中 本郷絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年)
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912、
『東京市及接続郡部地籍地図』東京市調査会、1912、
『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)、
参考文献など:
「小石川 谷中 本郷絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年)、
『本郷区勢要覧 昭和5年』東京市本郷区編(本郷区、1931)
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(財団法人霞会館、1996)
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(街と暮らし社、2000)、
『華族総覧(講談社現代新書2001)』千田稔(講談社、2009)、
文京区HP
次回は、津山藩谷中本村抱屋敷跡を歩いてみましょう。
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