本所菊川町下屋敷跡を歩く【維新の殿様・常陸国谷田部藩(下野国茂木藩) ⑧】

《最寄駅:東京メトロ新宿線 菊川駅》

江戸時代も終わりに近い嘉永年間、常陸国谷田部藩には神田・柳原元誓願寺前に4,433坪余の上屋敷、本所菊川町に300坪と本所南割下水に1,100坪の二か所の拝領下屋敷がありました。

そこで今回は本所菊川町の下屋敷跡を歩いてみましょう。

なお、先に第5回「新時代を謳歌、細川子爵家」で見たとおり、明治4年2月の茂木藩への名称変更から同年7月の廃藩置県までの5か月間でしたが、谷田部藩時代と同じ江戸屋敷が使用されていたことから、常陸国谷田部藩に下野国茂木藩の名称を付け加えて表記します。

また、屋敷の場所や名称は、『武家屋敷名鑑』に依拠しています。

(グーグルマップは菊川橋を示しています。)

谷田部藩(茂木藩)本所菊川町下屋敷コース図の画像。
【谷田部藩(茂木藩)本所菊川町下屋敷コース図】

常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)菊川町下屋敷を歩く

スタート地点は東京メトロ新宿線菊川駅A4出口、ここから出ると目の前が新大橋通りです。

この新大橋通りを東の行徳方面に100mほど進むと、道向かいに「長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡」という現代的フォルムの碑が設置された隅田菊川郵便局のある交差点を右折して南下しましょう。

ほどなく右手に立体駐車場が見え、その南隣に「デューク菊川」というマンションに到着しました。

ここが谷田部藩(茂木藩)菊川町下屋敷跡地です。

マンションは見たところ、下屋敷とほぼ同じ範囲とみられますが、関連する遺構などは見当たりません。

道沿いに「宮田製作所跡」の説明板がありますが、これは江戸切絵図で隣の「酒井大学頭」こと出羽国松山藩下屋敷のこと、またの機会を楽しみに。

周囲には古い工場や住宅がところどころ残り、下町らしい風情ある路地も見られますので、余裕のある方はぜひ散策して見てください。

谷田部藩(茂木藩)菊川町下屋敷跡地から再び北上して新大橋通りに出て、東の行徳方面に右折、200mほどで大横川に架かる菊川橋につきました。

菊川橋の袂にある公園でちょっと休憩しながら、本所菊川町と谷田部藩(茂木藩)菊川町下屋敷ついておさらいしておきましょう。

大横川に架かる猿江橋と東京スカイツリーの画像。
【大横川に架かる猿江橋と東京スカイツリー】

大横川

まずは目の前を流れる大横川から。

この大横川は横川ともいい、万治二年(1659)徳山五兵衛重政、山崎四郎左衛門重政の本所奉行によって、本所深川埋立を行ったとき開鑿されました。

大横川は当時、墨田区向島1丁目と吾妻橋1丁目との隅田川分岐点から東流し、北十間川に接する点から南下、木場5丁目付近において西へ曲がり、隅田川と合流する延長7.11Km、幅20ないし35mからなる江東区最長の河川でした。

なお、江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられたといわれています。(江東区土木部河川公園課設置の説明板より)

菊川橋が大横川を渡すのは新大橋通り、はるか行徳方面まで伸びる大通りです。

細川玄蕃頭深川下屋敷(「深川絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、1852)嘉永5年国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【細川玄蕃頭深川下屋敷「深川絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、1852)嘉永5年 国立国会図書館デジタルコレクション 】

菊川町と菊川

そして橋の名は、菊川町にちなんでいますが、じつはこの町の名は、菊川という川があったことに由来しているのは案外知られてないかもしれません。

この菊川、菊川橋から東方向を望んだ最初の信号があるあたりを南北に流れていたのです。

そしてこの細流を境として、大横川に近い街区が菊川町、それより西は武家屋敷が広がっていました。(『墨田区史』)

これって、まさに幸田露伴が言うところの、「本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処でよく本所の小ッ旗本などと江戸の諺で申した位で、千石とまではならない何百石というような身分の人達が住んで居りました。」(幸田露伴『幻談』)という場所だったのですね。

その一角にあったのが谷田部藩(茂木藩)菊川町下屋敷、広さ300坪ですので、中小の旗本屋敷と同じくらいの規模と手狭ですが、なんと奥坊主林長二に貸していたのです。(『武家屋敷名鑑』)

江戸城内の坊主衆(表坊主)(『千代田之御表 御鏡開ノ図〔部分〕』楊洲周延(福田初次郎、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【江戸城内の坊主衆(表坊主)(『千代田之御表 御鏡開ノ図〔部分〕』楊洲周延(福田初次郎、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

奥坊主・林長二

この林長二、文化元年~2年は肝煎御坊主、文化4年~14年には御用部屋坊主衆の中に名が見え、50俵高、居所が「本所御たい所丁」とある人物です。(『文化武鑑』)

奥坊主とは、若年寄支配の同朋頭の配下にあって茶室を管理し、将軍や大名、諸役人に茶を進めることを職務としました。

そういえば、時代劇で案内をしたり噂話をする剃髪僧衣の人、いますよね。

あれかなと思ったら、大名や諸役人に給仕するのは表坊主、かっこは同じでも奥坊主はやはりお茶のようです。

ちなみに、この職は大名や諸役人からの付け届けなどがあって報酬が多く、家計が豊かだったとのこと。

そういえば、芥川龍之介の家も、代々江戸城の御奥坊主の家柄だったのでした。

それに「本所御たい所丁」は現在の墨田区両国三丁目、両国駅から京葉道路にでたあたりですから、これまた芥川龍之介の家が「僕の住んでゐたのは「お竹倉」に近い小泉町」(芥川龍之介『本所両国』)、もう目と鼻の先です。

林長二については、この菊川町の屋敷を何に使ったのかを含めて興味津々で調べてみたのですが、それ以上の情報は得られませんでした。

明治初めの細川玄蕃深川下屋敷跡付近(「明治東京全図」明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【明治初めの細川玄蕃深川下屋敷跡付近(「明治東京全図」明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ ) 「五十二」の北西部か「五十一」のどちらかとみられます。】

明治・大正の菊川町

そして廃藩置県後には、本所界隈にも華族の邸宅があちこちに設けられていますが、谷田部藩(茂木藩)菊川町下屋敷は上げ地となって町地となり、菊川町三丁目に編入されています。(『墨田区史』)

その後、この付近は深川工業地帯として発展し、工場や民家が建ち並ぶようになりました。

しかし本所は、関東大震災と東京大空襲で甚大な被害が出たところ。

現在いる菊川橋周辺でも、劫火を逃れようと大横川を目指した多くの方が亡くなりましたので、公園の一角に町の方々が地蔵をまつって供養されておられます。

本所菊川町、昭和17年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、C29C-C1-34〔部分〕) の画像。
【本所菊川町、昭和17年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、C29C-C1-34〔部分〕) 宮田製作所の自転車工場を拡張するために、周辺が更地になっています。 】

それでは帰路につきましょう。

新大橋通りを西に300mほど進むと、スタート地点の東京メトロ新宿線菊川駅A4出口に到着です。

今回のコースは約1㎞・30分ほど、道は平坦ですし川沿いの緑地が近く、天気に恵まれれば快適な散策が楽しめると思います。

大横川遊歩道と小名木川遊歩道

もし足に余力があるのでしたら、菊川橋からは大横川遊歩道と小名木川遊歩道を歩いてみるのがおすすめ。

川面に移る東京スカイツリーや橋の風情は、本所という土地の魅力を体感できます。

なお、遊歩道は土の道、雨の日には足元にご注意ください。

春には桜、初夏の新緑と季節ごとに美しい深川の光景がみられて、天気が良ければ快い散策が楽しめるに違いありません。

永井荷風が「溝渠運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処」で、その眺望を「堀割の水のあるいは分れあるいは合する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている」(永井荷風『日和下駄』)と描いて称賛した深川の扇橋あたりの風景は、東京スカイツリーとあいまって見ごたえ十分です。

今回は、直接的に藩邸の遺構などは見られませんでしたが、本所の歴史と魅力を堪能できる散策でした。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献

『深川区史 上巻』深川区史編纂会編(深川区史編纂会、1926)

『墨田区史』東京都墨田区役所、1959

『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)

『角川日本地名大辞典 13東京』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『幻談』『幸田露伴全集 第6巻』倖田露伴(岩波書店、1978)

『本所両国』『芥川龍之介全集 第9巻』芥川龍之介(岩波書店、1978)

『編年江戸武鑑 文化年鑑』石井良助監修(柏書房、1981~82)

『東京の橋―水辺の都市環境』伊東孝(鹿島出版会、1986)

『江戸城武家屋敷名鑑』朝倉治彦監修(原書房、1988)

『藩史大事典 第2巻 関東編』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣出版、1989)

『日和下駄』『永井荷風全集 第11巻』永井荷風(岩波書店、1993)

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)

『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、

『東京の橋 100選+100』紅林章央(都政新報社、2018)

参考文献

『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、

『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、

『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、

『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、

『東京繁昌記』木村荘八(演劇出版社、1958)

『東京府志料 六十三(第10巻)』東京都政史料館、1959

次回は常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)本所南割下水下屋敷跡を歩いてみましょう。

トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。

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