前回、市橋家が仁正寺に入封するまでを見てきました。
そこで今回は、それ以前の仁正寺最初の黄金期についてみていきたいと思います。
蒲生氏の本居・日野城
仁正寺周辺は、鎌倉時代初めから近江国守護佐々木家の被官としてこの辺りで勢力を誇った蒲生氏の勢力下にありました。
その後、近江国守護六角氏の被官となった蒲生氏が中野城、のちの日野城に本拠を移すと、城下町を整備していきます。
天文元年(1532)には城を中心に町割りを作り、武士や町人を集めて城下町が完成、この東端部分がのちの仁正寺村でした。
前回みたように、山と平野の接点で交通の要衝でもあったこの場所には上・下の市が成立し、塩・相物・檜物などの座が形成されるまでに発展していきます。
そして永禄11年(1568)に織田信長に六角氏が敗れると、蒲生賢秀は信長に降伏してその配下となりました。
天正10年(1582)本能寺の変の際もそうですが、信長不在の折には蒲生賢秀・氏郷親子が安土上の留守を任されるほどの信任を得るまでになっています。
そして信長の死後は豊臣秀吉に仕え、領地を安堵されました。(以上『地名大辞典』)
蒲生氏郷(がもう うじさと・1556~1595)
その後氏郷は、天正10年(1582)10月日野城下に楽市楽座を定めると商業が大いに盛んとなり、これがのちの日野商人を生み出す素地となったのでした。
天正12年(1584)氏郷は日野6万石から伊勢国松坂12万石に転封となると、氏郷を追って多くの商人が松坂に移住、城下に日野町を形成しますが、このことが後に伊勢商人誕生へとつながっていくことになったのです。
ちなみに、氏郷は小田原征伐の功により会津92万石の大大名となりますが、一方で千利休の高弟で「利休七哲」の一人に数えられる文化人としても名を残しています。(『近江日野町志』)
長束正家(なつか まさいえ・?~1600)
蒲生氏郷が奥州に移った後、中村一氏が入封したものの駿河に移封、その後に入ったのが近江国甲賀郡・蒲生郡5万石、のちには12万を領したのが長束正家です。
正家は、その本拠を近江国甲賀郡水口に定めましたので、日野城は廃城となり城下町も急速に廃れることとなりました。
この正家が、関ケ原の合戦で西軍についたのはご存じの方も多いのではないでしょうか。
しかし正家は戦わずして帰城、本拠・水口城も池田長吉らの大軍に包囲されて落城し、10月3日に日野左九良(桜)谷で自害して長束家は滅亡します。(『近江日野町志』)
その後、長束家の旧領は幕府領となりますが、慶長11年(1606)には、仁正寺村民が新町の創設と日野城跡の開墾を願い出て、代官青山孫平の許可を得ました。
町が衰退して農村に戻った仁正寺でしたが、後に見るように、元和6年(1620)市橋長政が日野城跡に陣屋を構築し、仁正寺藩を立藩するのです。(以上『地名大辞典』)
初代藩主・市橋長政(ながまさ・1575~1648)
長政は天正3年(1575)に林右衛門左衛門の三男として美濃国で生まれました。
母は市橋長勝の姉、叔父長勝に養われて慶長9年(1604)には江戸に出て二代将軍秀忠に仕え大坂の陣で活躍、下総国香取郡・海上郡に千石を与えられます。
その後、長勝が越後国三条に移封されると長政も越後に移り、長勝とは別に三千石が与えられましたが、長勝死去によって三条藩公収されると、長政の所領も没収されてしまいます。
そして幕府は長政の家督相続を許すとともに、あらためて近江国蒲生・野洲郡と河内国交野郡に計二万石を与え従五位下伊豆守に叙したのです。
これは第1回「仁正寺藩と西大路藩」で見たように、本来ならば取り潰しのところを幕府からの特別措置でしたので、市橋家が幕府に深く感謝したのは言うまでもありません。
長政は領地の近江国蒲生郡仁正寺村(滋賀県蒲生郡日野町西大路)に陣屋を構えて入部、ここに仁正寺藩が誕生します。(『寛政重修諸家譜』『国史大辞典』『全大名家事典』)
元和6年(1620)長政は計3千石を一族のものに分与しましたので、仁正寺藩は幕末まで1万7千石を継承することとなりました。
長政の忠勤
長政は家名存続のみならず、領地を豊饒な近畿に与えられたことに深く感謝して幕府の役目を積極的に務めます。
三代将軍家光が上洛して参内する時にはこれに従い、大坂城の石垣普請役を務め、中国十四か国巡見使、西国筋直轄領の郡奉行も務めています。
さらに寛永11年(1634)には、将軍家光の病気平癒を祈願するために春日局が近江国多賀大社へ代参したところ、快癒したために報恩に行われた多賀大社の社殿造営の際には長政が奉行を務めています。(『寛政重修諸家譜』『国史大辞典』『全大名家事典』)
その後、将軍から日ごろ良く働くことを誉められて黄金5枚を下賜された三代・直信(なおのぶ・1656~1720)、下屋敷占風園に八代将軍吉宗を迎えた四代・直方(なおかた・1689~1750)、五代・直挙(なおたか・1712~1802)、六代長璉(ながてる・1733~1785)と続き、仁正寺藩中興の英主・七代長昭の時代を迎えます。(『寛政重修諸家譜』)
今回は市橋家仁正寺藩誕生から江戸時代中頃までを見てきました。
次回は藩中興の英主・長昭の時代から高島秋帆登場までを見ていくことにしましょう。
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