前回みたように、二度の大火と相次ぐ当主の死で、市橋子爵家の没落が始まってしまいました。
しかし、これは悲劇のまだ序章に過ぎなかったのです。
今回は、子爵市橋虎雄に訪れた悲劇を見ることにしましょう。
市橋虎雄(とらお・1892~?)
前回見たように、明治28年(1895)5月23日、子爵市橋長壽は弱冠29歳で亡くなりました。(『平成新修旧華族家系大成』)
長壽死去の原因などはわかりませんが、そのあまりにも早すぎる死は、市橋家に暗い影を落としたのは間違いありません。
長壽の妻仲子は、身重の体に幼い長男虎雄を連れて、実家の父・松平信庸を頼り、東京府浅草区栄久町28番地、現在の台東区蔵前4丁目の松平信安の邸宅に移っています。(『華族名鑑』博文館、1894)
『人事興信録初版』によると、明治28年(1895)3月には二男鉄之助を生み、そして弱冠3歳の虎雄(明治25年(1892)4月1日生)に明治28年(1895)6月家督を継承、襲爵もさせて、市橋子爵家を存続させたのです。
市橋子爵家を守るために
さらに長壽の弟・丁丸(明治7年(1874)5月生)は分家して独立させて、同じく姉まき(安政元年(1854)7月生)は京都府平民伊藤かよの養女に、少し後には長壽弟の於菟麿(明治3年(1870)11月生)も分家させていています。(『人事興信録 3版』)
これはなるべく親族を少なくして家政への負担を軽くすると同時に、弟たちを華族という軛から解放するねらいがあったとみてよいでしょう。
また、伯爵酒井忠篤弟忠庸に嫁いだ長壽の姉留子(慶応3年(1867)7月生)へも支援を依頼したと思われます。
こうして仲子は、実家に頼りながら市橋子爵家の再興を模索していたのかもしれません。
事態はさらに悪化
しかし、仲子の努力も実らぬまま事態はさらに悪化していきます。
というのも、今度は実家である旧出羽上山藩主松平子爵家に大きな問題が起こったのです。
そこで仲子の実家、藤井松平家嫡流の上山松平子爵家について、『華族事件録』から、その概要をみてみましょう。
戊辰新戦争で会津藩や庄内藩などからなる奥羽越列藩同盟が官軍と戦うものの、敗北したのは皆さまもご存じかと思います。
この同盟に出羽国上山藩も参加しており、その責任を問われて藩主松平信庸は明治元年(1868)12月に隠居し、若干3歳の弟・信安が家督を相続しました。
信安が当主というものの、後見役についた信庸が実権を握るという、いわば院政状態になっていたのです。
この信安が、複雑な家庭環境の中で放蕩の限りを尽くして、ついに明治41年(1908)10月19日に爵位と位記を返上させられてしまうのです。(『明治天皇紀』第十二)
これによって信安は浅草区栄久町の自宅を出ざるを得なくなり(明治42年12月刊『日本紳士録 第13版』)、藤井松平家の菩提寺・芝区二本榎町の松光寺に逃げ込むことになって、上山松平家は大混乱に陥ってしまいます。
虎雄親子の流転
このような状況でしたので、市橋仲子は実家からの支援が全く望めないようになってしまいました。
実家が浅草区栄久町の屋敷から逃げ出すと、仲子母子もここを離れざる得なくなり、『人事興信録 4版』では東京市本郷区根岸片町24、現在の文京区根津2丁目23付近の染め物工場横にある借家に移ります。
根岸片町の家は緊急避難的意味合いだったのか、『人事興信録 5版』では下谷区上野桜木町38、現在の台東区上野桜木2丁目へと移りました。
『人事興信録 6版』、『人事興信録 7版』ともこの下谷区上野桜木町17を子爵市橋虎雄の住所としていますので、一時期は安定した生活を送れたようです。
そして弟の鉄之助(明治28年(1895)3月生)も成人してしばらくすると分家させています。(『人事興信録 第11版改訂版 上』)
ここまでくると、市橋家の子弟を次々と分家させるのは、もはや先に見た子爵家を守るという意味合いではなく、逆に市橋家の子弟が華族の名籍に縛られて生活できなくなることを恐れたからなのかもしれません。
さらに、虎雄が石井八十八三女のタケと結婚したのも、この上野桜木町の家でのことと推察されます。
『平成新修 旧華族家系大成』によると、タケは明治24年(1891)4月9日生まれとありますので、虎雄より一つ年上の姉さん女房、華族出身ではないことから見ても、何とか生活を立て直したいという意図なあったのではないでしょうか。
虎雄の惨状
このころには虎雄もすでに成人し、30代になっていますので、ここまで見た状況では子爵にふさわしい教育を受けたとは思えません。
母実家の醜聞もあり、市橋子爵家の困窮も漏れ聞こえるようになると、華族間の付き合いもままならない状況に陥ってしまったのでしょう。
サラリーマンとして生きる道も、華族という肩書があることを考えると、それにふさわしい教育を受けていない虎雄には難しいのではないかと想像するところです。
あるいは、爵位返上すらできない状況にまで追い込まれたと見るべきなのかもしれません。
虎雄、どん底へ
その後も子爵市橋虎雄は、母とともに本郷区駒込林町1番地、現在の文京区千駄木5丁目(『人事興信録 第8版(昭和3年)』に移りました。
この場所は団子坂を上ったところにあって、借家が多い町として有名なところ。
さらにその後、本郷区駒込神明町21番地、現在の文京区本駒込4丁目19番地付近(『人事興信録 第9版(昭和6年)』と住まいを代えています。
当時のこの場所は神明町三業の地、花街の裏手に当たる場末感の漂う場所でしたので、市橋虎雄もいよいよ困窮が極まった印象ですね。
さらに厳しいことに、『平成新修 旧華族家系大成』にあるタケとの離婚も、おそらくこの頃ではないでしょうか。
そして、『人事興信録 第10版(昭和9年)上巻』で「東京市杉並区堀ノ内町2ノ606」、現在の杉並区堀ノ内1丁目東部に移ります。
杉並区は和田倉町、杉並町、井荻町、高井戸町が合併して昭和7年(1932)に誕生したばかり、虎雄が住んだ旧堀ノ内字定塚久保付近は急速に住宅が増えつつあったとはいえまだまだ田畑のひろがる場所だったようです。
虎雄失踪
市橋虎雄について、『人事興信録』第10版以降、記載内容にほとんど変更のないまま『人事興信録 第14版 上』まで掲載が続いた後、子爵市橋虎雄の記録が途切れています。
この状況は、『日本紳士録』39版(昭和10年)から最終の47版(昭和19年)、『華族名簿』昭和9年5月20日調(華族会館、1934)から昭和18年7月1日現在(華族会館、1943)でも確認できました。
これら情報をみると、実際の状況が記されたのは、虎雄が杉並区堀之内に住所を移すころまでで、その後の昭和9年(1934)以降は記載内容を更新する根拠となるような申請類が提出していないことによるとみられます。
記載内容に反する事実、つまり犯罪を起こすなどの華族にふさわしくない状況にあると判断されれば記載されないわけですから、実際は更新手続きを行わないままどこかに失踪してしまって行方知らずとなったものと考えるのが妥当でしょう。
虎雄の栄達
ちなみに、華族令(明治40年皇室令第2号)は以下のように定めています。
死刑または懲役刑が確定した場合は、爵位を失いますし(第二十二条)、華族の品位を保つことが出来ない場合(第二十三条一項)には、華族の冷遇を停止する。
また、華族の体面を汚す行為を行ったもの(第二十四条)や華族の品位を保てないもの(第二十五条)には自主的に華族を返上させることを許す。(『帝国六法全書 訂補14版』「華族令」一部の内容を要約)
市橋子爵家の場合、明らかに華族の品位を保てていないものの、罪を犯しているわけではありません。
ですので、自主的に爵位を返納しないかぎり、そのまま自動的に爵位が認められるのです。
このため、ひっそりと姿を消した子爵市橋虎雄にはそのまま爵位が残り、各種名簿類には前と変わらぬ情報が繰り返されることになりました。
ただ、位階は年功で半自動的にあがっていきますので、虎雄は幕末に大活躍した祖父長義の正四位を越えて、最終的に従三位という市橋家歴代当主で最も高いものになっているのにはある種の皮肉を感じずにはおれません。(『華族名簿』昭和18年7月1日現在)
思い起こすと、市橋虎雄の祖父・長義が、明治天皇に拝謁したり、大阪行幸で大藩と伍して銃隊や乗馬、大砲演習の天覧という栄誉に浴したのは、慶応4年(1868)のことでした。(第4回「市橋家の栄光」参照)
それから、虎雄が弱冠3歳で家督を相続し襲爵したのが明治28年(1895)のこと、市橋家の最高の誉れの日からわずか30年足らずのちのことです。
物心ついた時からの爵位に縛られて身動きの取れない、いわば「どん詰まり」状態にあって、年老いた母と爵位の外は何もない生活の中で、市橋虎雄は何を思ったのでしょうか。
市橋子爵家の爵位は、昭和22年(1947)華族令の廃止にともなって廃爵されています。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『太政官日誌 第百廿一 明治紀元戊辰冬十月』太政官、1876
『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)明治16年、
『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)、
『日本紳士録 第1版』交詢社、1889(明治22年)、
『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1893))、
『華族名鑑』博文館、1894、
『日本紳士録 第13版』明治42年12月刊交詢社、1909
『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊、
『帝国六法全書 訂補14版』山野金蔵編(有斐閣、1911)
『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事興信所編(人事興信所、1911)
『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)、
『人事興信録 5版』人事興信所編(人事興信所、1918)
『明治天皇大阪行幸誌』市立大阪市民博物館編(大阪市、1921)
『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)、
『近江蒲生郡志 巻四〔江戸時代志〕』滋賀県蒲生郡編(蒲生郡、1922)、
『近江蒲生郡志 巻十〔軍事志〕』滋賀県蒲生郡編(蒲生郡、1922)、
「藤原氏支流 市橋」『寛政重脩諸家譜 第5輯』国民図書、1923
『人事興信録 7版』人事興信所編(人事興信所、1925)、
『近江日野町志 巻上』日野町教育委員会編(滋賀県日野町教育会、1930)、
『人事興信録 第11版改訂版 上』人事興信所編(人事興信所、1939)、
『人事興信録 第14版 上』人事興信所編(人事興信所、1943)
『日本紳士録』39版、交詢社、1935(昭和10年)、
『日本紳士録』47版、交詢社、1944(昭和19年)、
『華族名簿』昭和9年5月20日調(華族会館、1934)、
『日本橋旧聞』長谷川時雨『長谷川時雨全集』(日本文林社、1941~42)
『華族名簿』昭和18年7月1日現在(華族会館、1943)、
『中央区年表 明治文化編』東京都中央区、1958
『千代田区史 中巻』千代田区役所、1960
『明治天皇紀』第12(明治四十一年一月‐明治四十五年七月)宮内省編(吉川弘文館、1975)
『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1979)
「市橋氏」『国史大辞典 第一巻』国史大辞典編集委員会編(吉川弘文館、1979)
「廃城一覧」森山英一『幕末維新大事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)
「仁正寺藩(西大路藩)」渡辺守順『三百藩藩主人名事典 第三巻』藩主人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1991)
『江戸幕藩大名家事典』小川恭一編(原書房、1992)
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(社団法人霞会館、1997)
『新編千代田区史 通史編』東京都千代田区、1998
『明治・大正・昭和 華族事件録』千田稔(新人物往来社、2002)
『戊辰戦争』戦争の日本史18、保谷徹(吉川弘文館、2007)
「近江国西大路藩 市橋氏」『江戸時代全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)
大久保純一「幕末・明治の出版物に見る災害表象」『国立歴史民俗博物館研究報告 第203集』国立歴史民俗博物館、2016
東京消防庁消防博物館HP
参考文献:
『中央区史』東京都中央区役所、1958
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
神谷次郎「戊辰戦争における三百藩動向一覧」『幕末維新大事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)
『千代田区史 区政史編』千代田区総務部、1998
「仁正寺藩(改称・西大路藩)」渡辺守順『藩史大辞典 第5巻 近畿編〔新装版〕』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)
次回からは、維新の殿様・大名屋敷を歩く、近江国仁正寺(西大路)藩市橋家編をおとどけします。
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