ひな祭りの誕生 ひな祭りの話④

【ひな祭りの話】①ひな祭りとは?②ひな祭り源流、上巳の節供とは?③もう一つのひな祭りの源流、ひひな遊びとは?④ひな祭りの誕生⑤現代のひな祭り⑥雛流しと流しびな⑦雛市と江戸のひな人形とは?

これまで見てきたように、「上巳の祓」の道具の人形と「ひひな遊び」の「ひひな」とは全く別のものでした。

なにしろ、かたや罪やけがれを託した人形、一方は貴族のままごと遊びに由来する品です。

この二つが、江戸時代の初めに融合してひな祭りが誕生します。

この章では、ひな祭りが誕生する過程をみてきましょう。

「十二月ノ内 弥生雛祭」(歌川豊国(蔦屋吉蔵、安政1年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「十二月ノ内 弥生雛祭」(歌川豊国(蔦屋吉蔵、安政1年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

室町時代になると、『健内記』永享12年(1440)3月3日条に「上巳祓在貞朝臣昨日自リ人形送ル」と記されるように、3月3日のために人形を贈呈する習慣が始まります。

贈り物とされるようになった上巳の祓の人形は、贈り物にふさわしいように次第に立派なものとなっていきます。「阿末加津(あまがつ・天児)」「這子(ほうこ)」など上巳祓のための人形が立派なものに変わっていくと、贈られた人形は祓を行った後も流したり捨てたりせずに、神聖なものとして翌年も用いられるように変化します。そしてただ置いておくのではなく、女の子の枕辺に置いて子供が三歳になるまで身に添えて持たせるという風習も生まれました。

こうして女の子の身近に上巳の祓の人形がいつもある環境が生まれました。自然と女の子は人形遊びである ひひな遊びにこれを使うようになります。

「雛あそび」(『日本風俗史・祖先の生活』上里朝秀(玉川学園出版部、昭和4年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「雛あそび」『日本風俗史・祖先の生活』上里朝秀(玉川学園出版部、昭和4年)国立国会図書館デジタルコレクション】

このように、宮中や貴族の女の子の間では、上巳の祓えの人形と ひひなとが合わさってひとつになっていきます。

これが後にひな祭りのひな人形へと発展することとなりました。

さらに江戸時代になると、人形自体がさらに豪華になって 平安時代の宮廷の内装を真似たひな壇を作るまでに発展していきます。

こうして現在のひな祭りが京都で誕生したのです。

次に、京都の宮中や貴族階級ではじまったひな祭りが日本全国に広がっていった要因を見てみましょう。

ひな祭りの話②」で触れた、大宝元年に3月3日と定められた節日を、江戸幕府は五節句の一つに制定しました。

幕府が採用した上巳の節供のなかに ひな祭りが組み込まれていたのです。

これにより武家でひな祭りが広く行われるようになるとともに、江戸の町でひな祭りが一気に広がることとなります。

「廓中美人競」(鳥高斎栄昌、1795頃 大英博物館)の画像。
【「廓中美人競」鳥高斎栄昌、1795頃 大英博物館】

さらに、ひな祭りが急速に広がった背景として、民間ではすでに上巳の祓に由来する雛流しが広く行われていたことは見逃せません。

上巳の祓の人形を流す前に祭る習俗は中世から行われていました。

この雛流しの人形を飾り祭る風習が変化したことで、ひな祭りは国中へと広がっていきます。

こうして誕生したひな祭りですが、書物の上でひな祭が現れてくるのは『お湯殿の上の日記』寛文2年(1625)3月4日の「中宮の御かたより、ひいなのたいの物、御たるまいる」がはじめです。

その後も、『時慶卿記』寛文5年(1628)3月3日の「ヒナノ樽、臺等ニテ」、同じく寛永6年(1629)3月4日条に「昨日中宮ニテヒイナノ樽台等ニ有酒」と記されています。

どれも「鯛」や「樽」とあり、樽にはお酒が入っていると思われます。

いずれもひな祭りに供えたあと、供え物をさげて酒宴を行っていたことが分かる記録です。

このように、子供同士だけではなく、大人たちも娘の幸福を願って祭りをしていたのです。

こうして江戸時代はじめにはひな祭りが3月3日に定着していきました。

次章では、誕生したひな祭りが発展して現代の形になった過程をみてみましょう。

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