二宮尊徳仕法のゆくえ【維新の殿様・常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)編 ③】

前回、行き詰まりを見せる藩政の改革に二宮尊徳の仕法で挑むまでの道のりをたどってきました。

はたして尊徳の改革はどうなってしまうのでしょうか?

今回は、尊徳仕法のゆくえを追ってみましょう。

八代・興建(おきたつ:1798~1855)

二宮尊徳の仕法を得ての改革も道半ばで天保8年12月に興徳が死去、養嗣子の興建が家督を相続して八代藩主となりますが、尊徳の仕法は継続されていきます。

二宮尊徳(Wikipediaより20210414ダウンロード)の画像。
【二宮尊徳(Wikipediaより)】

尊徳の谷田部・茂木仕法

ここで二宮尊徳が示した谷田部・茂木領仕法を具体的に見ていきましょう。

まず、藩士と領民の双方に、徹底して倹約を課しました。

そして分度、つまり藩が使える予算の上限を決めますが、もちろん緊縮予算なのは言うまでもありません。

さらに天保8年(1837)には細川家本家の熊本藩から借り受けていた6万928両余・米150俵を義捐(『角川日本地名大辞典 茨城県』)、つまり踏み倒すことにして負債を減らしました。

その一方で、報徳金一千両で農村の復興を図っています。

その内容は、荒地の起返し(再開懇)、用水・堰・隧道・橋などの普請、日掛縄づくりなど多岐にわたるものでした。

報徳金とは、これら事業に取り組む熱意ある農民には無利子で資金を貸し出す資金のこと。

事業が成功した場合は返済にあたって報徳冥加金を上乗せして志納、これに再開墾した農地からの年貢とを報徳金に加えて再び農民に無利子で貸し出す、という仕組みでした。(以上『茨城県の歴史』)

勧農衛はこれに加えて、小児養育金制を導入して人口回復に努めています。

「桜町の開拓指南の図」(『日本赤十字社 赤十字博物館報 第13号』日本赤十字社編(日本赤十字社、1935)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「桜町の開拓指南の図」『日本赤十字社 赤十字博物館報 第13号』日本赤十字社編(日本赤十字社、1935)国立国会図書館デジタルコレクション】

尊徳仕法のゆくえ

この尊徳仕法、当初は内容が厳しいものだけに、当初は藩士だけでなく領民にも不評だったといいます。

しかし、天保8年(1837)時点で債務残高が4万8,395両余まで激減する(『角川日本地名大辞典 茨城県』)という大きな成果を上げたことで、藩主興建も尊徳の仕法を続けるほかありません。

結果が出ても不満はくすぶっていたようで、その後は、藩における内部対立に加えて、次第に藩庁が尊徳の財政指導を守らなくなったことから両者の間で不和が生じることとなりました。

そして、興建が大坂城詰となったのをきっかけとして尊徳の仕法は中止に追い込まれますが、すでに継続できる環境になかったたのかもしれません。

ところが、天保11年(1840)凶作に見舞われて再び藩が窮地に追い込まれると、藩は手のひらを返してその翌年の天保12年(1841)に仕法を再開したというから驚きです。

しかし天保14年(1843)には尊徳が御普請役格二十俵二人扶持で幕府に取り立てられて利根川分水路工事の調査を命じられると、もはや尊徳が谷田部・茂木領仕法にかかわることが出来なくなって、ここで完全に断絶することとなってしまいました。(『江戸時代全大名家事典』)

農業指導する二宮尊徳(『勤倹詔勅画談』榊原編纂所ほか編(榊原文盛堂ほか、明治42年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【農業指導する二宮尊徳(『勤倹詔勅画談』榊原編纂所ほか編(榊原文盛堂ほか、明治42年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

尊徳の仕法の効果は?

二宮尊徳の谷田部・茂木仕法の効果はあったのでしょうか?

見返してみると、尊徳の谷田部・茂木領仕法は天保6年(1835)~同14年(1843)の9年間、しかも4年間の中断がありました。

ですので、実質的には5年間と短期間ですから、尊徳の仕法は効果挙げるのが厳しいように思えますよね。

ところが、効果は意外な形で現れたのです。

尊徳の仕法が行われていた前後にも、天保9年(1838)と弘化元年(1844)には谷田部・茂木とも洪水に見舞われて甚大な被害が出ますし、天保11年(1840)には谷田部領内が凶作に見舞われるなど、相変わらず天災は続いていきました。

また、弘化3年(1846)には谷田部領内で百姓一揆、慶応2年(1866)には茂木領内で百姓騒動が起こるなど、混乱する時代背景もあって藩内の民心は安定には程遠い状況といってよいでしょう。

しかしその一方で、安政年間には天保8年(1837)に二宮尊徳から借りた大麦百五十一俵余の対価を完済していますし、借金は最大で藩歳入の25年分にあたる13万両余だったものが、3万両にまで激減したのです。

さらに、茂木領だけで807町あった荒れ地も693町を開墾、人口も一時期6,702人にまで減少していたものが茂木領一万人を超えるところまで回復するという信じられないような大きな成果を上げたのです。(『角川日本地名大辞典・栃木県』)

確かに、三万両の借金はまだ藩の収入数年分ですから、改革も道半ばではあるのですが、確実に領民の人心に変化が表れ始めていたのです。

その事実を端的に示しているのが、安政2年(1855)の江戸安政地震の折でした。

地震によって本所の下屋敷が倒壊する甚大な被害が出た藩に対して、なんと茂木領の村々が藩に献金したのです。(『藩史大事典』)

これまでの興廃しきった状況では考えられない事態は、まさに尊徳の仕法がきっかけとなって領民の意識が変わり始めていた証拠とみてよいでしょう。

また、尊徳仕法で負債が軽減されたことで、藩がとれる政策の幅が広がったおかげで、谷田部藩が幕末維新を乗り越えることができたのです。

二宮金次郎(『お伽倶楽部 学校家庭』仙洞隠士(盛陽堂、明治44年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【二宮金次郎の偉人伝は近代日本で大きな役割を果たしました。(『お伽倶楽部 学校家庭』仙洞隠士(盛陽堂、明治44年)国立国会図書館デジタルコレクション )】

中村勧農衛

ここで見逃してはいけないのが、藩医・中村元順(勧農衛)の粘り強い働きです。

この元順が、尊徳の作った谷田部・茂木領仕法を実施する役割となったことを覚えておられるでしょうか。

この中村元順は、尊徳の仕法が中断されようとも農村を回り続けたのです。

嘉永4年(1851)には『御領内村柄取直永安諭種』、『さとし草』を作成して配布し、農業を奨励するとともに赤子の間引きを戒めるなど、農民の意識改革に努めたのでした。

のちに興建は元順の功を称して「勧農衛」の名を送るとともに医業を廃して藩の用人職を命じるとともに、百石の禄を与えています。(『二宮尊徳翁百話』)

なんと彼が作った茂木の神井、河井、小井戸の切り通しは、現在も残り利用され続けているというから驚きです。(『藩史大事典』)

こうして、ようやく藩政改革の出口が見えてきた嘉永5年(1852)に興建は隠居して家督を嫡男の興貫に譲ると、安政2年(1855)12月に没しました。

そして、農民からの強い反発にもめげず勧農衛は農村改革を続けますが、安政5年(1858)に勧農衛が没すると、尊徳仕法も道半ばで完全に断絶することになったのです。(『角川日本地名大辞典・茨城県』)

二宮尊徳の仕法と中村勧農衛の努力で、ようやく出口が見えてきた谷田部藩の危機。

そして時代はいよいよ激動の幕末へと向かいます。

次回は谷田部藩(茂木藩)の幕末を見ていきましょう。

『二宮尊徳先生唱歌 国定教材』(山崎明軒ほか(水野書店、明治41年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【晩年は不遇だった二宮尊徳も、明治時代には大人気、唱歌が作られるほどでした。『二宮尊徳先生唱歌 国定教材』山崎明軒ほか(水野書店、明治41年)国立国会図書館デジタルコレクション】

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