前回までは、藩政に苦慮し続ける松平家津山藩の姿を見てきました。
いよいよ今回は名君の呼び名高い八代目藩主松平斉民の時代、津山藩の全盛期を見ることにしましょう。
松平斉民(まつだいら なりたみ・1814~1891)、津山藩の復活
第十一代将軍家斉の十四子(一説には十六子)銀之助は4歳の文化14年(1817)に津山越前松平家七代藩主斉考の養子となり、元服後は斉民を名乗ります。
天保2年(1831)に斉考が隠居したことにともなって18歳で家督を相続し、八代目藩主となりました。
前述のとおり、斉民が養子になった折には津山藩は五万石の加増となって、石高が倍増しています。
さらに、天保9年(1838)には幕府に領地の一部交換を願い出て讃岐国小豆島の一部などを領するようになりました。
じつはこれもあまり豊かでない地域と、豊かで安定した地域の交換となっていることから、実質的な加増といえるもので、これも将軍子息への幕府の特別な配慮なのでしょう。
いっぽう、斉民は謹厳温雅で学問・文雅・書画に通じた教養人でした。
斉民の理解を得て、宇田川玄真(榛斎)・榕庵・興斎、箕作阮甫・秋坪などあまたの人材が活躍し、津山の洋学が全盛期を迎えたのは第2回でみたところです。
斉民の治世
斉民は藩の財政再建はもちろん、教育の振興にも力を注いでいます。
津山藩では五代藩主康哉時代の明和2年(1765)に藩校として設けられた学問所は儒学専門でしたが、これを天保14年(1843)に藩儒昌谷精渓と稲垣武十郎が提出した「学校御造営諸制度調書」に基づいて拡充し、文武稽古場を設けています。(『三百藩家臣人名辞典』)
また、藩校改革に続いて嘉永4年(1851)には、植原六郎左衛門による砲術・水連指導を行うなどの兵制改革を行いました。
さらに嘉永6年(1853)6月3日にペリーが来航して開国を要求すると、親藩の藩主として斉民も対応に奔走します。
まずてはじめに、斉民は箕作秋坪に浦賀へペリー一行の調査を命じて事実関係の把握に努めました。
また、冒頭で見たように箕作阮甫と宇田川興斎がアメリカ大統領からの国書を幕命により翻訳していること、さらには津山の洋学が蓄積してきた豊富な西洋の知識を活用して、斉民は事態が正確に理解できたようです。
そして幕府がペリーの開国要求について各藩の意見を集めた際には、早くも嘉永6年7月18日に江戸城に登城して意見書を上申しています。
その内容は、この機会に開国することが得策であり、それに伴い国の建て直しが必要との論(『津山市史』)は、きわめて正確な国際情勢の分析と現実的で的確な内容でした。
結果的に斉民が建白したとおりに日本の近代化が進んだのですから、私が見た他藩の建白書とは次元が違うもので斉民の聡明さに驚くほかありません。
建白書自体は家臣が書いたにしても、その内容を正しく理解したうえに堂々と幕府に主張するとは、彼の下からあまたの学者が出たのも納得です。
ところで、養継子として入国した斉民は、家臣を掌握することに努めていましたので、文政10年(1827)に隠居していた先代藩主斉孝に三男慶倫(よしとも・1827~1871)が生まれた折にはこれを養子にして嫡子としています。
さらに安政2年(1855)には家督を慶倫に譲って若隠居したうえで確堂と号しましたが、藩の支配は続けて(『華族総覧』)、いわゆる「院政」を敷きました。
ところで、津山藩はもちろん親藩であるうえに加増や領地替えで幕府から受けた恩恵も大きく、加えて斉民は将軍の子息でもあるので、藩論は佐幕(保守)派よりです。
しかし、斉民の「院政」は、前藩主斉民を中心とする佐幕(保守)派と、津山生え抜きの新藩主慶倫を奉じる勤皇(尊王)派に反論を二分する事態を引き起こしてしまいました。
この対立、洋学が盛んな津山でも起こっているのって不思議に思いませんか?
津山では、洋学者たちから多くの欧米の情報が入ってきているので、日本と欧米との力の差を知る人が多かったに違いありません。
また、先に述べた幕府からの恩義も、幾度もあった御家断絶の危機を救ってもらったことも考え合わせると、勤皇(尊王)派の入る余地はなさそうに思うのですが…
藩レベルと日本の国レベルでは、やるべきことが違ってくるということでしょうか。
尊王派の活躍と八月二十八日の政変
嘉永6年(1853)のペリー来航と安政元年(1854)の日米和親条約締結によって、国論は開国と結びついた佐幕派と、外国勢の排斥を唱える攘夷と尊王(勤皇)派とに二分されて、対立が深まっていきます。
そんななか、文久2年(1862)に勅使三条実美による攘夷決行の勅使が関東に下向した折には、新君主慶倫が幕府に建白書を出して勅命受諾を力説しました。
尊王(勤皇)派の黒田彦四郎は、これを親藩たる津山藩が幕府と朝廷の間をつないで尽力する好機ととらえて藩主慶倫に進言したのです。
この時は佐幕派の藩論が主流で空振りとなりましたが、その後海老原極人・鞍懸寅二郎と矢吹正則・井汲唯一らと協力して中川宮や公卿に運動した結果、ついに文久3年(1863)1月には津山藩主に国事斡旋の内勅が下されます。
その内容は、薩摩・長州・土佐・因幡鳥取・岡山の当時の勤皇派諸藩と協力して幕府との間を取り持つことで政局を収拾するというもの、実質的に佐幕から勤皇へ藩論を変更しなさい、というものすごい内容だったのです。
この内勅を受けて、津山藩主慶倫は藩論を勤皇にしたうえで京都へ向かいました。
そして同年5月に摂津での海岸警備を命ぜられて出兵しています。
ところが8月18日、薩摩藩と京都守護職の会津藩、幕府の公武合体派が協力して長州藩や尊王攘夷派の公卿を京都から追放したのです。
これが世にいう「八月二十八日の政変」、これによって公武合体の機運が高まることになり、先の津山藩への内勅が宙に浮くことになってしまったのです。
この事態に、藩主慶倫は、井汲唯一を捕縛して投獄、藤本十兵衛を監禁して勤皇派を弾圧しました。(『津山市史』)
事態の急変に津山藩はどう対応するのでしょうか?
次回は混迷する時代の中で苦慮する津山藩と、その一方で大活躍する確堂の姿を見ていきたいと思います。
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