堀家飯田藩苦難の歴史【維新の殿様・信濃国飯田藩(長野県)堀家④】

前回は、飯田藩が置かれた環境についてみてきました。

借金財政で身動きが取れない中で、歴代藩主たちはどのように藩を運営していったのでしょうか。

今回は、飯田に入封した堀親昌から幕末の親義まで、飯田藩の歴史を見ていきたいと思います。

堀親昌(Wikipediaより20210323ダウンロード)の画像。
【堀親昌(Wikipediaより)】

堀親昌(ほり ちかまさ・1606~1673)

慶長11年(1606)伏見で生まれた親昌は、父・親良の死去に伴い寛永14年に家督を相続、その際に父の遺言で弟・親智に三千石、同じく親泰に二千石を分与して二万石を領しました。

寛文12年(1672)には信濃国飯田二万石に転封、ここに堀家飯田藩が誕生したのです。

しかし親昌は飯田に来た翌年の延宝元年(1673)に没しています。

親昌は『烏山紀行』『熱海紀行』などの著書があり、「当時代武家第一の歌人」と呼ばれる文化人として知られた君主でした。

堀親昌が飯田に入封してからは、三代親貞(ちかさだ・1640~1685)、四代親常(ちかつね・1674~1697)、五代親賢(ちかかた・1684~1717)、六代親庸(ちかのぶ・1707~1728)、七代親蔵(ちかただ・1712~1746)と続きますが、いずれも夭折してなかなか藩政は安定しません。

前回見たように、親常の時代には太宰春台とその父太宰金左衛門が藩を辞し、四代藩主親賢の時代には牛之助騒動が起こっています。

堀親長(ちかなが・1739~1808)

八代目藩主・親長は、若いころ吉原通いを好んで藩政を顧みることが無かったので、江戸家老柳田為美が藩主を諫める遺言状を残して自死する事態になってしまいます。

この出来事で心を入れ替えた親長は心機一転、積極的に藩政に取り組んで藩政改革に取り組みました。

そして藩の収入不足を解消するために、宝暦12年(1762)に千人講を始めると、領内でこれに反対する領民が一揆、のちに千人講騒動と呼ばれる事態に。

親長は千人講導入を断念すると騒動は収まりましたが、安永8年、嫡男の親忠に家督を譲り隠居、持ち直すかに見えた藩政も、ふたたび低迷してしまいした。

ちなみに、親長に諫死した柳田為美は、日本民俗学の父・柳田国男の祖先というから驚きです。

柳田国男(Wikipediaより20210323ダウンロード)の画像。
【柳田国男(Wikipediaより)】

九代親忠(ちかただ・1762~1784)、十代親民(ちかたみ・1777~1796)と、またもや藩主の夭折が続き藩政の低迷が続いた後、名君の誉れ高い親寚(ちかしげ)が登場します。

堀親寚(ほり ちかしげ・1786~1848)

兄二人が早世したため寛政8年に十一歳で家督を相続すると、享和元年に初めて入部、藩政に励みます。

親寚は松平定信の政治を範として、文武を奨励し質素倹約に努めたうえに、領内三か所に備荒米蔵を設けるなどした結果、治績は大いに上がりました。

その後、幕政に参画、文政9年(1826)寺社奉行、同11年若年寄に進み、七千石を加増されるとともに、水野忠邦の閣僚となりました。

水野忠邦の幕政改革に伴って天保14年(1843)老中格、元治元年(1844)老中という外様として破格の昇進を遂げています。

天保の改革は親寚の献策によるものが多いとも言われるとともに、その辣腕から「堀の金壷」とか「堀の八方にらみ」と諸大名から言われ恐れられました。

水野忠邦(Wikipediaより20210322ダウンロード)の画像。
【水野忠邦(Wikipediaより)】

しかし、水野忠邦の失脚に連座して辞職、処罪を受けて加増分七千石だけでなく所領からも三千石が没収されてしまいます。

親寚が加増されたことで、飯田藩は二万七千石となって藩財政は好転、すると江戸郊外の新宿・源兵衛村に楽其楽園を造営するのですが、これは活動拠点としての別宅が必要になったのでしょうか。

この楽其楽園は、親寚がもとあった廃園を購入して林祭酒述斉に命じて改修した五十六勝の景物をもつ名園でした。(「明治庭園記」)

親寚が嘉永元年(1848)12月に63歳で没すると、楽其楽園は嘉永2年(1849)に尼崎藩松平遠江守忠栄(ただなか)に譲渡しています。

その後、津山藩の松平確堂が譲り受けると姿見邸と名付け隠居所とし、幕末明治初めの確堂大活躍を支えることになったのです。(『津山市史』、「松平確堂と松平男爵家の姿見邸を歩く」参照)

弘化2年(1845)に親寚が逼塞を命じられると、その子親義が家督を継いだのでした。

堀親義(Wikipediaより20210322ダウンロード)の画像。
堀親義(Wikipediaより)

親義の治世については、第1回「ダメ殿伝説はほんと?」で見たところです。

付け加えると、慶応3年(1867)9月25日には飯田城下で札降があり、若衆を先頭に町中の老若男女が「老いたるは娘になり」娘は男装して「ちょとせ」「おかげだ」と踊り歩くなど、町が無秩序状態になっています。(『長野県の歴史』)

これは、島崎藤村が『夜明け前』で隣の木曽谷を描いたように、「世直し」の機運が飯田でも大いに高まったことの表れとみてよいでしょう。

第1回で見た親義治世は、混迷を深める幕末という時代の中で、親義は精一杯努力したのにうまくいかず、最後は力尽きた印象を受けるのです。

そのせいか、隠居した親義は、領内の島田村久井に邸宅を構え隠居して、地域の人たちから親しみを込めて「島田の御隠居様」と呼ばれ温かく見守られて余生を過ごしました。

こうした中、親義の隠居に伴って急遽家督を継いだのが親広です。

次回は、大政奉還直後の混乱するなかで十三代藩主となった親広、その見事な活躍を見ていきたいと思います。

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