前回みたように、長州征伐の失敗により、幕府の威信は失墜して、時代は一気に動き始めました。
そこで今回は、明治維新における柳川藩の行動をみてみましょう。
大政奉還
幕府が苦境に立ち国内情勢が混乱するなかで、柳川藩は情報収集に勤めました。
藩の方針は、藩主鑑寛の妻・純子を通じて親戚関係にあった福井藩主松平慶永(春嶽)と尾張藩主徳川慶勝と連携して対処する方針を立てていたようです。
さらに、家老の十時雪斎に命じて、剣豪の足達八郎など藩士7名を付けて、江戸藩邸整理の名目で情報収集にあたらせました。
慶応3年(1867)10月14日には大政奉還、12月9日には王政復古の大号令を発して新政府が発足します。
藩主鑑寛は十時雪斎と十時兵馬惟恭、のちに池辺藤左衛門を新政府へ出仕させて情報を得つつ、立花壱岐に命じて軍制改革と藩校改革を行わせます。
柳川藩出陣
慶応4年(1866)には新政府の要請により、藩主鑑寛が自ら藩兵300余人を率いて上洛すると、今度は関東鎮撫の命を受けて江戸から改名したばかりの東京に入りました。
柳川藩兵が東京に入ったころには、すでに5月15日上野戦争、5月22・23日飯能戦争と、新政府軍が関東地方の鎮圧に成功していました。
さらに、5月1日には新政府が白河城を奪還、5月10日に長岡榎峠攻防戦がはじまるなど、戦の中心は東北地方南部と新潟方面に移っていたのです。
なお、5月3日には奥羽列藩同盟が成立して新政府への抗戦を表明しています。
ここからは新政府に対抗するこの勢力を、同盟軍と表記して話を進めますのでご承知ください。
平潟上陸作戦
西郷隆盛は、奥州征伐を白川口からだけでなく、海路仙台へ兵を送りこむ構想を持っていました。
しかし、新政府には十分な海上輸送能力はありません。
このため、神戸事件が片付いて諸外国が艦船のチャーターに応じるのを待っていたのです。
そして蒸気船で1万5千ほどの兵力を奥羽へと送り込んで「海岸より手の下し安き処を打ち砕き、次第次第に叩き上げ」という作戦を主張しました。(5月1日付大久保ら宛書簡)
西郷の作戦を採用した新政府は、新政府は蒸気船をかき集めて輸送力を確保し、6月に入って作戦を実行します。
6月13日に参謀木梨精一郎(長州藩)・渡辺清左衛門(大村藩)が率いる薩摩・大村・佐土原の藩兵を載せて、三邦・富士・飛隼の三艦が品川沖を出発しました。
16日には常陸国北端の平潟(茨城県北茨城市)に到着、すでに同盟軍が海岸警備をする状況でしたが、交戦もなく上陸することができました。
この間に、柳川藩兵317名と備前岡山藩兵302名は、江戸から川舟を使って銚子に向かい、19日に取って返した軍艦に乗船、翌20日のうちに平潟へ上陸しました。
関田の戦い(八幡山攻防戦)
これに対して同盟軍は、仙台・平・泉の藩兵や人見勝太郎率いる遊撃隊の総数250名が平潟奪還のために進撃、関田付近で新政府軍・備前岡山藩の斥候に発見されて戦闘が起こります。
当初、八幡山に籠って植田集落に火を放つ同盟軍に岡山藩兵は苦戦します。
しかし、薩摩・柳川・佐土原藩兵が出動し、大村藩兵が砲撃して支援にあたり、同盟軍は撤退しています。(「八月十日備前藩届書写」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋8月 第55』、「八月廿四日 柳川藩届書冩四通」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋8月 第66』)
こうして大政奉還がなった後も戦乱は続き、戊辰戦争がはじまりました。
柳川藩も平潟に上陸して奥羽列藩同盟軍と戦うことになったのです。
そこで次回は、柳川藩が参加した激戦、新田坂の戦いをみてみましょう。
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