前回みたように、富岡神社の参詣者に愛された油堀川の小さな渡しに大きな転機が訪れます。
大正12年(1923)に発生した関東大震災は、深川の町にも壊滅的な被害をもたらしました。
![「深川飛行撮影」(『関東大震大火記』辰省堂編輯部編(辰省堂書店、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「深川飛行撮影」『関東大震大火記』辰省堂編輯部編(辰省堂書店、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション補正-1024x576.jpg)
![「有名な深川八幡宮の焼趾」(『関東大震災記念写真帖・大正一二年九月一日、深川区』坪井道一(日東新聞社、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「有名な深川八幡宮の焼趾」『関東大震災記念写真帖・大正一二年九月一日、深川区』坪井道一(日東新聞社、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション補正.jpg)
![「火攻め・水攻めの深川公園」(『関東大震災記念写真帖・大正一二年九月一日、深川区』坪井道一(日東新聞社、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「火攻め・水攻めの深川公園」『関東大震災記念写真帖・大正一二年九月一日、深川区』坪井道一(日東新聞社、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション補正-1024x391.jpg)
そこからの復興事業では、河川を重要な物資輸送手段ととらえて、集中的に予算が投入されていきます。
まさに、「復興は橋から」となるのですが、その一環で油堀川も改修されるとともに、地域の道路網も整備されていきます。
そうした中で、この場所も渡しに変えて、はじめて橋を架けることになったのです。
こうして、現在の江東区深川2-1 と富岡1-17 へ、油堀川に架されていた長さ20.4m、幅11mの鋼桁構橋が昭和4年(1929)に竣工しました。
![和倉橋の一般図【一般構造図並びに装飾図(昭和2年) (「震災復興橋梁図面901枚」(江東区指定文化財江東区所蔵))】の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/05/DSCN4180補正2-1024x768.jpg)
江東区教育委員会が平成30年に設置した説明板には、和倉橋の一般図【一般構造図並びに装飾図(昭和2年) (「震災復興橋梁図面901枚」(江東区指定文化財江東区所蔵))】が掲載されているので、これを転載します。
よく見ると、橋の両端にあるのが留柱を兼ねた親柱が小さく見えます。
もとは四基あったうちの「和倉橋親柱 二基」が残って、「現代に伝わる震災復興橋梁の面影」として平成29年4月1日に江東区指定有形文化財(建造物)に指定されました。
![和倉橋親柱(南側)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/05/DSCN5743補正2-819x1024.jpg)
また説明板にはこう記されています。
「両親柱は、上中下3段の本体と台石で構成されています。本体・台石はいずれも花崗岩製です。各部材は後にモルタルで接合されました。また正面には、「わぐらばし」と記された橋名板(陽鋳・鉄製)がはめられています。この親柱の特徴として、側面に見られる放物曲線状のデザインがあげられます。これは大正期に流行した建築様式色である表現主義の影響と考えられます。」
「このように本親柱は、一見形態に変化が見られますが、失われた震災復興橋梁の面影を現代に伝え、さらに当時流行していた表現主義のデザインを知ることができる貴重な文化財です。」
![和倉橋親柱(南側)側面の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/05/DSCN4193補正2-1-768x1024.jpg)
そうか、このモダンなデザインはドイツ発の総合芸術運動、表現主義の影響を受けたのか、と感心します。
確かに、厩橋をはじめ、復興橋梁と表現主義は仲良しです。
次に、この橋があったころの様子を情感たっぷりに描いた泉鏡花の作品を見てみましょう。
「色なき家にも草花の姿は、ひとつひとつ女である。軒ごとに孅き娘がありそうで、皆優しい。
横のこの家のならび、正面に、鍵の手になった、工場らしい一棟がある。その細い切れめに、小さな木の橋を渡したように見て取ったのは、折から小雨して、四辺に靄の掛かったためで、同伴の注意を待つまでもない、ずっと見通しの、油堀川からの入堀の水に、横に渡した小橋で、それと丁字形に真向こうへ、雨を柳の糸状に受けて、縦に弓型に反ったのは、即ちもとの渡船場に変えた、八幡宮、不動堂へ参る橋であった。」【泉鏡花『深川浅景』】
![八幡橋(旧弾正橋)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/05/DSCN4146補正3-1.jpg)
ちなみに、文中の「横に渡した小橋」が八幡橋(旧弾正橋)です。
富岡八幡の周りには、遊郭や料理店が軒を連ねる歓楽街、今の姿からは想像できない艶っぽい雰囲気があったのです。
かつては油掘川と橋、八幡宮の森が織りなす美しい光景が広がっていたのですね。
![「皇都会席列品競 深川・平清」(芳年、明治16年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「皇都会席列品競 深川・平清」芳年、明治16年 国立国会図書館デジタルコレクション補正.jpg)
![「風俗三十二相 おもたさう 天保年間深川 かるこの風ぞく」(水野芳年(綱島亀吉、明治21年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「風俗三十二相 おもたさう 天保年間深川 かるこの風ぞく」水野芳年(綱島亀吉、明治21年)国立国会図書館デジタルコレクション補正.jpg)
![「風俗三十二相 さむそう 天保年間深川仲町芸者」(水野芳年(綱島亀吉、明治21年)国立国会図書館デジタルコレクション)](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/「風俗三十二相 さむそう 天保年間深川仲町芸者」水野芳年(綱島亀吉、明治21年)国立国会図書館デジタルコレクション補正.jpg)
深川八幡の周辺には、この平清をはじめ、高名な料理店が多く、また妓楼もある歓楽街でした。
また深川八幡の仲町は、あの名高き「辰巳芸者」の本拠地の一つでもあったのです。
その後、この橋は東京大空襲にも耐え、地元民の生活を支え続けていきます。
![昭和17年空中写真(C29C-C1-29)【部分・加筆】の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/昭和17年空中写真(C29C-C1-29)【部分】補正加筆.jpg)
![昭和38年空中写真(MKT636-C9-24)【部分】の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/昭和38年空中写真(MKT636-C9-24)【部分】補正.jpg)
![昭和50年空中写真(CKT7415-C29A-49)【部分】の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/昭和50年空中写真(CKT7415-C29A-49)【部分】補正.jpg)
![平成1年空中写真(CKT893-C7-34)【部分】の画像。](https://tokotokotorikura.com/wp-content/uploads/2020/11/平成1年空中写真(CKT893-C7-34)【部分】補正.jpg)
しかし、昭和50年(1975)に油堀川が首都高速建設用地となって埋め立てられ、橋が撤去されてしまいます。
和倉橋は造られてから わずか半世紀足らずでその歴史の幕を下ろすことになったのです。
そしてどうした訳か、欄干の端にあった親柱2基だけが残されました。現在は、高速9号深川線の高架下の道を挟み南北に置かれています。
ここまで和倉橋についてみてきました。
次回では、最後に改めて、橋名板の謎に迫っていきたいと思います。
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