消えた橋を訪ねて 高砂橋(たかさごばし)編 ③

前回まで高砂橋の歴史をたどってきました。

東京大空襲で焼けてしまったこの橋の運命は?今回はその後の高砂橋について見てみましょう。

空襲で焼失したまま放置されていた高砂橋ですが、さらなる問題が降りかかってきます。

それは空襲によって発生した膨大な灰燼の処分という難問でした。

この問題が戦後復興を阻む深刻な状況を生みます。

昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M451-36【高砂橋付近】に加筆)の画像。
【昭和22年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M451-36〔高砂橋付近〕に加筆)】

昭和22年撮影の空中写真を見ると、浜町川沿いなどに黒く見える小山が残っているのが分かります。

こうした状況について『中央区史 下巻』によると、「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態です。

そこでこの問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となりました。

こうして浜町川の埋め立て工事が昭和24年から始まり、昭和25年に終了しました。

埋め立て工事に先立って、高砂橋の撤去が前年に行われて、わずかに残った橋台が完全に撤去されたのです。

こうして高砂橋は東京大空襲で焼け落ちたままで浜町川と共に消滅しました。

昭和32年撮影の空中写真を見ると、小川橋付近まで浜町川の埋め立てが終了しているのが分かるでしょうか。

昭和32年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、KT572YZ-C1-28(1957・3・29)【高砂橋付近】に加筆)の画像。
【昭和32年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、KT572YZ-C1-28(1957・3・29)〔高砂橋付近〕に加筆)】

こうして廃橋となった高砂橋、現在はどうなっているのでしょうか?この橋の痕跡を探して実際に歩いてみたいと思います。

現在、高砂橋があった交差点を見まわしてみても、橋の痕跡は全くありません。

幸い、わずかに細長い独特の治割りが残ることから、かつての浜町川の跡を偲ぶことができます。

そこで現地を少し歩いてみましょう。

写真は住所表示板に高砂橋跡を記入した地図で、赤○部分が高砂橋の跡です。

住所表示板に高砂橋跡を記入した地図の画像。

かつての橋の袂には、久松町区民会館が建てられていますが、その敷地がまさに、かつての浜町川のあった場所にあたっています。

そして現在、この建物の横から久松町児童公園が整備されていて、子供たちの元気な声がいつも響いているのです。

見渡してみると、公園の遊具などが並ぶ東側がかつての浜町川の流路で、走路として整備されているのが河畔道路跡、その向こうには中央区立久松小学校が見えました。

元高砂橋の橋灯の台座の写真。
【元高砂橋の橋灯台座】

この公園を少し南にいけば、50mほどで元高砂橋跡。

碑や案内板はありませんが、公園横」の植え込みの中に、橋台や橋灯の跡が僅かに残っていますので、探してみてください。

さらに南にいけば、約70mで交差点に出ますが、そこが前にみた小川橋の跡地にいたります。

「小川橋の由来」碑の画像。
【「小川橋の由来」碑】

現在、久松警察署の横にあたるこの地には、「小川橋の由来」碑が建てられています。

この碑には、明治時代初めに東京を震撼させたピストル強盗清水定吉逮捕の際に殉職した小川巡査の事績が記されて、地域の人たちによって大切に守られています。

再び高砂橋跡まで戻って、今度は北側を見てみましょう。

今度は公園ではなく、細長い街区が並んでいるのが分かります。

その真ん中を歩行者専用道路が走っているのですが、両脇には昭和の風情が色濃く残る細長い町がならんでいました。

しかし町は塀で囲われて人気がなく、なんだか寂しい感じです。

この町については栄橋編で書きますのでこちらをご覧ください。

現在は大規模な再開発が始まっていますので、もうすぐ大規模なマンションが並ぶこととなるでしょう。

次回はこの橋がなくなったあとの久松小学校の歴史を見ていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です