熊野復興の光【紀伊国新宮水野家(和歌山県)56】

前回みたように、熊野はかつてないほどの繁栄を謳歌するものの、連続して恐慌が到来すると、今度は目を覆うばかりの衰退に至るまでになりました。

そこで今回は、苦境に立つ熊野と新宮に復興への光がさした熊野古道の世界遺産登録までをみてみましょう。

東南海地震と南海地震

昭和20年(1945)8月15日の終戦により、長い戦争の時代はようやく終わりを告げました。

尾鷲港の津波被害(『東南海大地震調査概報 昭和19年12月7日』中央気象台 編集・発行、1945 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【尾鷲港の津波被害『東南海大地震調査概報 昭和19年12月7日』中央気象台 編集・発行、1945 国立国会図書館デジタルコレクション 】
南海地震津波被害の跡が残る新宮市、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M659-A-154〔部分〕)の画像。
【南海地震津波被害の跡が残る新宮市、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M659-A-154〔部分〕) 画面中央左上の川原町や船町、上・下仲町付近の建物がすべてなくなっているのがわかります。】

ところが、昭和21年(1946)12月21日、紀伊半島と四国沖でマグニチュード8.0の大地震が発生します。

この南海地震では、新宮を津波と火災が襲って、死者58人・負傷者245人、全壊家屋600、半壊家屋1,408、全焼家屋2,398、罹災者8,309という甚大な被害尾を出しました。

昭和19年(1944)12月7日には東南海地震が起こって大きな被害を出したばかりでしたので、新宮は戦災と震災という二重の復興が課されることになったのです。

熊野速玉大社(撮影者・663highland、Wikipediaより20220212ダウンロード)の画像。
【熊野速玉大社(撮影者・663highland、Wikipediaより)】

戦後の新宮

こうして熊野地方は次々と大きな打撃を受けて地域経済が深刻な状況に陥るなか、さらなる打撃が襲います。

熊野の山中に国道が整備されるとともに、北山・十津川に巨大なダムが建設されて、熊野川での筏流しが衰退したのです。

木材輸送が水上輸送からトラックへと移行する中で、昭和40年(1965)には、水面貯木場が埋め立てられて姿を消しています。

さらに外材の輸入による木材の価格低迷と、石油への燃料転換による炭の需要激減によって、長く熊野を支えてきた基幹産業の林業と炭薪生産に深刻な不況が訪れたのです。

また、地域経済の深刻な不振は、都市部への人口流失を招き、熊野地方で過疎化が急速に進むことになりました。

青岸渡寺と那智滝(那智勝浦町)(撮影者633highland、Wikipediaより20220225ダウンロード)の画像。
【青岸渡寺と那智滝(那智勝浦町)(撮影者633highland、Wikipediaより)】

熊野古道

こうしたなか、2000年には「熊野古道」が国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。

道路が世界遺産となったのは日本ではじめて、世界でもスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に次いで二例目です。

これは、熊野詣の衰退とともに荒廃した古道を、熊野の人々が長年にわたって地道に整備や復元に取り組んだ賜物でした。

熊野古道の世界遺産登録は、熊野三山を中心とする独特の宗教空間の歴史的重要性と、地域の人々による保全・保護の取り組みが評価されたといえるでしょう。

こうして世界に認められたことで、観光資源としての経済的効果のみならず、熊野住民たちの自信回復にもつながっているのです。

コロナ禍で中断したものの、これからも世界中から数多くの人々が熊野を訪れて、その豊かな自然と文化に驚嘆することになるでしょう。

熊野古道(大門坂)(撮影者JINN、Wikipediaより20220210ダウンロード)の画像。
【熊野古道(大門坂)(撮影者JINN、Wikipediaより)】

この文章を作成するにあたって、以下の文献などを引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

「新宮藩史」「新宮県史」『和歌山県史 前記』明治2~5年

『官許貴家一覧 元武家華族之部』雁金屋清吉、1873

「明治東京全図」明治9年(1876)、国立公文書館蔵

『改正華族銘鑑』長谷川竹葉編(青山堂、明治11年7月)1878

『華族諸家伝 上巻』鈴木真年(杉剛英、明治13年)1880

『華族部類名鑑』安田虎男 編(栄文堂、1883)

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊

『人事興信録 3版く之部−す之部』(人事興信所、1911)

『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)

朝日新聞東京版朝刊1891年3月1日付 美術欄

朝日新聞東京版朝刊1893年8月11日付 社会欄

『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1893)

『華族鑑:新刻』青山長格編(海老原兼太郎、1894)

『華族名鑑』博文館、1894

『新撰華族銘鑑』本多精志 編(博文館、1899)

『華族銘鑑』秀英舎 編(秀英舎、1902)

『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928))

『華族名簿 昭和4年5月31日調』(華族会館、1929)

『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932

『熊野史 小野翁遺稿』小野芳彦(和歌山県立新宮中学校同窓会、1934)

『人事興信録 第11版改訂版 下』人事興信所編(人事興信所、1939)

『人事興信録 第12版(昭和14年)下』人事興信所編(人事興信所、1939)

『華族名簿 昭和14年5月1日調』(華族会館、1940)

『人事興信録 第13版 下』人事興信所編(人事興信所、1941)

朝日新聞・昭和16年(1941)6月10日付夕刊東京版

『人事興信録 第14版 下』人事興信所編(人事興信所、1943)

朝日新聞・昭和34年(1959)6月16日付朝刊・財政欄

『議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960

朝日新聞・昭和44年(1969)4月24日付朝刊・企業欄会社人事

「大石誠之助」「菅野スガ」「幸徳秋水」絲屋寿雄/「奥宮健之」松尾章一/「大逆事件」大原慧/「徐福伝説」大藤時彦/「水野氏」高木昭作/「水野忠央」小山譽城/「水野忠誠」金井圓/『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)

「徐福」山本節『日本昔話事典』稲田浩二・大島健彦ほか編(弘文堂、1977)

『八甲田山死の彷徨』新田次郎 新潮社 1978.1.30

『角川日本地名大事典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三 編(角川書店、1978.10.27)

「新宮城」「堀内新宮城」『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、創史社 編(新人物往来社、1980)

『角川日本地名大事典 30和歌山県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三 編(角川書店、1980.7.8)

「避雷針について」武田幸男『海事資料館年報』10:11-13、1982

「廃城一覧」森山英一『幕末維新史事典』小西四郎 監修、神谷次郎・安岡昭男 編(新人物往来社、1983.9.30

「避雷針について(その2)」武田幸男『海事資料館年報』14:8-10、1986

「徐福」堤邦彦『日本伝奇伝説大事典』乾克己・小池正胤ほか編(角川書店、1986)

『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(㈳霞会館・吉川弘文館、1997)

『江東区史』中巻、江東区 編集・発行、1997年3月31日

「新宮藩」小山譽城『三百藩主人名事典』第三巻、藩主人名事典編纂委員会 編(新人物往来社、1987)

『明治流星雨』坊ちゃんの時代第四部、関川夏央・谷口ジロー(双葉社、1998.7.24)

「水野重仲」「水野忠央」「水野忠幹」小山譽城『三百藩家臣人名事典』家臣人名事典編纂委員会(新人物往来社、1988.12.20)

『江戸幕藩大名家事典』中巻、小川恭一 編(原書房、1992)

「徐福」飯田勇『日本説話伝説大事典』志村有弘・諏訪春雄 編(勉誠出版、2000)

『和歌山県の歴史』小山靖憲・武内雅人ほか(山川出版、2003)

『長州戦争』中公新書1840、野口武彦(中央公論新社、2006)

「新宮藩」安藤精一『近世藩制・藩校大事典』大石学 編(吉川弘文館、2006)

「紀伊国新宮藩水野家」『江戸時代全大名家事典』工藤寛正 編(東京堂出版、2008)

『和歌山県の歴史散歩』歴史散歩㉚、和歌山県高等学校社会化研究会 編(山川出版、2009)

『大逆事件と知識人 ―無罪の構図』中村文雄(論創社、2009.4.30)

『大逆事件と大石誠之助 ―熊野100年の目覚め―』熊野新聞社 編(現代書館、2011.1.24)

『幕長戦争』日本歴史叢書 新装版、三宅紹宣(吉川弘文館、2013)

「新宮藩」三好國彦『藩史大事典』第5巻近畿編〔新装版〕木村礎・藤野保・村上直、雄山閣2015.12.25

『八甲田山消された真実』伊藤薫 山と渓谷社2018.2.1

『大逆事件 ―死と生の群像』田中伸尚(岩波書店、2018.2.1)

新宮市Webサイト

次回は、新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷を歩いてみましょう。

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