《最寄駅: JR山手線・京浜東北線・総武線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス 秋葉原駅、東京メトロ新宿線 岩本町駅、》
江戸時代の寛永2年から明治 年の廃藩置県まで、仁正寺(西大路)藩は「柳原の御屋敷」と呼ばれた神田元誓願寺前の上屋敷と、「御下屋敷」と呼ばれた本所五ツ目下屋敷を拝領していました。
今回は、このうち神田元誓願寺前の上屋敷を歩いてみましょう。
(グーグルマップは玄武館跡を示しています。)
スタートはJR山手線・京浜東北線・総武線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレスが乗り入れる秋葉原駅昭和通り口、ここから昭和通りを南へ、江戸橋方向に進みましょう。
神田川に架かる和泉橋を渡って、靖国通りの岩本町交差点に到着しました。
この岩本町交差点の南西角部分が仁正寺(西大路)藩「柳原の御屋敷」、東京メトロ新宿線 岩本町駅からだとA1出口を出て西に20mほど歩いたら到着です。
「右文尚武」碑
目の前の靖国通りは関東大震災からの復興事業で初めて作られた大通り、昭和通りも同じく帝都復興事業で火除地を兼ねて大幅に拡張されました。
そんなわけで、かつての市橋家仁正寺(西大路)藩上屋敷の半分近くが道路の用地となっています。
よくみると、現在の大通りと江戸時代以来の道や街区とは、30度ほど角度がずれているのです。
ここは江戸時代からの町割りに沿って、今度は交番から南西方向に歩いてみましょう。
ほどなく、小さな公園に「右文尚武」と書かれた立派な石碑があるのが見えてきました。
これは文と武の両方を重んずることや両者を備えることの意味をもつ「右文左武」(ゆうぶん さぶ)をアレンジした、かつてのこの町を象徴する言葉なのです。
というのも実際、江戸後期にはこの地に剣豪・千葉周作の道場、玄武館と、江戸を代表する儒者だった東条一堂の遙池塾が並んでいて、碑文によると両者の塾生が交流して見識を深め合ったとのことで、後に見るようにこの碑文のとおり文武を学ぶ人の町だったのです。
では、千葉周作の玄武館と東条一堂の遙池塾についてみてみることにしましょう。
千葉周作
千葉周作(1794~1855)は寛政5年(1793)陸奥国栗原郡花山村(気仙村説もある)の北辰夢想流を唱える千葉忠左衛門の家に生まれ(異説あり)、北辰夢想流を学んだのち、江戸に出て旗本喜多村氏に仕えました。
16歳で小野一刀流の浅利又七郎の門に入るものの、その後独立して北辰一刀流を創始。
齋藤弥九郎、桃井春蔵とともに幕末の三剣士にあげられるまでになります。
文政5年(1822)江戸日本橋品川町に道場玄武館を開き、のち文政8年(1825年)に神田お玉が池に移りました。
合理的な技術体系と教授法で広く庶民にまで人気を集め、門弟は3600人を超えるまでになっています。
その門下からは、海保帆平、井上八郎などの名剣士のほか、清河八郎、山岡鉄舟、坂本龍馬など多様な人材を輩出しています。
ちなみに、千葉周作の神田お玉が池・玄武館、神道無念流の齋藤弥九郎の道場・九段下俎橋の練兵館、鏡新明智流の桃井春蔵の道場・京橋蜊河岸の士学館を「江戸三大道場」と呼んでいました。
「技の千葉、力は齋藤、位は桃井」と評されていたそうです。
玄武館を開いたあと、千葉周作の剣の名声はおおいに高まって、のち水戸弘道館に出張教授して登用され、天保12年(1841)には水戸藩馬廻役に高100石、中奥まで進みました。
さらに弘化2年(1845)には与力格300俵で幕臣に連なっています。
遙池塾
市橋家仁正寺(西大路)藩上屋敷と千葉周作の玄武館に挟まれて、遙池塾がありました。
遙池塾(ようちじゅく)は江戸後期の儒学者・東条一堂(とうじょう いちどう・1778~1857)が文政4年(1821)に開いた儒学と詩文を教える私塾です。
東条一堂、名を弘といい、上総国埴生郡八幡原村、現在の千葉県茂原市出身。
京都の皆川淇園のもとで学んだ後、江戸に出て亀田鵬斎に学んでいます。
ちなみに、鵬斎は江戸随一の詩文書画にすぐれた文人にして儒者、奇行の人として広く知られていた人物です。
一堂も、師に倣って宋学を斥け古注による学問を推進し、『四書知言』『繋辞答問』などの書物を著しました。
一見地味ですが、ここに出入りしていた玄武館の若者たちが、一堂の思想的影響を受けて「志士」に育っていくことになったようで、歴史的に重要な役割を果たしていたといっていいでしょう。
このように、ここ神田東松下町周辺はさまざまな教育施設が集まる場所だったのです。
次に、この神田東松下町についてみていくことにしましょう。
神田・東松下町
江戸時代のこの界隈は、商人や職人の家と、武家屋敷が混在する場所でした。
東松下町という街は、明治2年(1869年)、神田松下町1丁目代地、神田紺屋町1丁目代地、神田三島町、神田岸町、神田富山町2丁目の一部と、市橋家柳原上屋敷などの武家地が合併して東松下町が誕生しました。
ちなみに、「東」の字を冠しているのは、近くにある松下町(現在の内神田1〜3丁目の一部)と区別するためと言われています。
その後、昭和22年(1947年)、神田を冠して町名は神田東松下町となり、現在に至っています。
東松下町という名前に覚えのない方も、この辺りの別称「お玉が池」なら耳にした方もおられるのではないでしょうか。
次に、この「お玉が池」についてみてみましょう。
お玉が池跡
江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。
当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉と言う女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったと言われています。
言い伝えでは上野・不忍池よりも大きな池だったとも言いますが、池は江戸時代の早い時期に埋め立てられましたので、正確な場所や規模ははっきりしていません。
現在は「お玉が池」とは岩本町2丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられますが、現在はそのあとかたは全く残らず、お玉稲荷が祀ってあるだけです。
そして江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。
その一例をあげると、先ほど見た千葉周作の道場・玄武館や東条一堂の遙池塾をはじめ、梁川星厳の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩佛の詩聖堂、佐久間象山の象山書院、磯又右衛門の柔道道場など、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開く文化と教育の中心的役割を果たしていたことがわかります。
また、安政4年(1857)には、伊東玄朴をはじめとする蘭学者83人が官許を得て勘定奉行川路聖謨の屋敷内に「お玉ヶ池種痘所」を設立しました。
ちなみに、種痘所はその後変遷を経て、現在の東京大学医学部に発展しています。
正保年間(1645~1648)に描かれた絵図です。画面中央に「一橋下総」とありますが、市橋下総守のことです。】
仁正寺(西大路)藩「柳原の御屋敷」
だいぶ回り道をしましたが、ここで仁正寺(西大路)藩柳原上屋敷に話を戻しましょう。
「江戸邸は一を柳原の御屋敷と称し神田にあり元和三年徳川秀忠より拝領の地にして弐千八百拾五坪余なり」(『蒲生郡志』)とあるように、立藩時から拝領した上屋敷は場所のみならず2,815坪余という規模も、江戸時代を通じて変わっていません。
ですから、この場所は拝領地、つまり幕府の土地を借りているのにもかかわらず、父祖伝来の領地のように錯覚していたのかもしれません。
このことが、後の悲劇につながっていきます。
しかも、神田は江戸でも火事が頻発することで有名な場所、実際に隣の谷田部藩上屋敷は、安永元年(1772)、天明6年(1786)、文化3年(1806)、文政元年(1818)、文政12年(1829)、天保5年(1834)と焼失していますので(『藩史大事典』谷田部藩)、藩財政悪化の大きな一因となったのは前にみたところです。(「細川玄蕃頭登場」参照)
市橋家上屋敷も被害に遭ったに違いないのですが、それに類する資料が見つからなかったのは何とも不思議なことです。
そして、廃藩置県時に新政府からこの上屋敷の地を下賜されました。。
「本所邸は便宜悪しきにより神田の邸に移住することゝなれり、後に下賜されし反別は千五百四十坪五勺ありき」(『蒲生郡志』)、しかし面積が半分になっています。
これを「明治東京全図」で見てみると、かつての上屋敷の南半分が市橋家の邸宅、北半分には「桜池学校」とあるのがみえるでしょう。
この「桜池学校」とは、いったい何なのでしょうか?
桜池学校
明治政府は成立当初から、教育にを大変重要視していましたが、この「国の富強のもとは人材育成にある」との考えは、政府のみならず国全体で共有されていたのはご存じかと思います。
そこでさっそく、東京において明治3年(1870)6月に六つの小学校を設立しました。
もちろん、これでは足りるはずもなく、明治6年(1873)にさらに3校が設立されますが、そのうちの一つが神田東松下町の第三番小学桜池小学校だったのです。(『千代田区史 中巻』)
「桜池学校」とよばれたこの学校、正式名称は「第一大学区第一中学区第三番小学」で、開校は明治6年10月、通称は先ほど見た「お玉が池」の古名からとったのでしょう。
しかし、後に見るように、明治14年2月桜池学校は大火によって焼失、別の火事で焼失していた隣の千代田学校(第一大学区第一中学区第十一小学、明治10年3月開校)とともに廃校になってしまいます。
しかし、やはり学校は必要ですので翌明治15年10月18日、桜池学校後近くに、両校名の頭文字をとり「千桜小学校」が創立されました。
その後、千桜小学校は西に移って、千代田区立千代田小学校となり現在も桜池学校や千桜小学校の歴史と伝統を引き継いでいます。
ですので、かつての桜池学校跡地にあたる右文尚武碑の隣に「千桜百年の碑」を建てるとともに、千代田小学校内に「千桜百年碑」という立派な石碑が建てられていました。
「松ヶ枝大火」明治14年1月26日大火
神田松枝町での放火により出火、火は折からの乾燥しきった町に瞬く間に広がって、一部は隅田川さえも越えて延焼する大火事となりました。
猛火は16時間にもわたって延焼し、神田区21ヶ町、日本橋区27ヶ町、本所区50ヶ町、深川区10ヶ町の、四つの区合わせて108ヶ町1万数千戸を焼き尽くしたのです。(『中央区年表 明治文化編』)
この火事では隣にある桜池小学校がすぐに再開していますので、市橋家柳原邸も被害がそれほど大きくなかった可能性があります。
しかし、災難は忘れる間もなく襲ってきました。
「神田小柳町から出火、東神田から日本橋区へと燃え移り、7,751戸を焼失しました。この火事には、警視総監(当時)が出場し、消防隊、消防組の総指揮に当たりました。」(東京消防庁消防博物館HP)
この火事では、桜池小学校も消失して廃校となりました。(『新編千代田区史 通史編』)
おそらく市橋家柳原邸も全焼し、財産の多くを失ったとみられます。
それでも父祖伝来の土地を手放せなかったようで、神田東松下町23番地で屋敷を再建しその後もしばらくこの地に屋敷を構え(『華族部類名鑑』安田虎男1883)、この地で翌明治15年(1882)に先代長義が亡くなっています。
こうして、二度にわたる火災と、当主の死は市橋家の家政に立ち直れないほど大きなダメージを与えました。
明治20年(1887)までには東京府本所区千歳町47番地、現在の墨田区千歳1丁目5付近に移らざる得なくなっています。(『華族名鑑 新調更正』彦根正三1887)(第5回「市橋子爵家の没落」参照)
市橋家柳原邸跡地のその後
市橋家が去った後も、神田東松下町は商人と職人がまじりあって住む町であることは変わりませんでした。
北隣の柳原では、1873年(明治6年)に土手は崩されましたが、岩本町周辺には古着屋が集中し、また軍服を扱う羅紗問屋が神田須田町にできたことで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は、現在に至るまで衣料の街として発達してきました。
また、東側の神田須田町周辺は、市電の路線が交差し甲武鉄道の起点・万世橋駅開業などで江戸有数の商業地に成長しています。
二つの特色ある商業地に挟まれることとなった神田東松下町は、商業地として発展するいっぽうで、裏店には職人が住まう昔ながらの姿が残る街だったようです。
しかし関東大震災では町全体が焼失する壊滅的被害を受けますが、震災復興で省線秋葉原駅が開業するとともに、昭和通りと靖国通りという基幹道路が建設されるなどして、いちはやく商業地として復興しました。
さらに東京大空襲でも甚大な被害を受けましたが、ほどなく復興したというから驚きです。
かつて町のそこここにみられた職人たちは姿を消しましたが、現在はビルの立ち並ぶ商業地となっていました。
上屋敷北端部、桜池学校跡地 上屋敷と市橋家邸宅跡地を南から望む 上屋敷と市橋家邸宅跡地を南西から望む
市橋家柳原邸の跡をぐるりと歩いてみても、関東大震災と東京大空襲と、二度も町を作り直したためか、もはや昔をうかがわせるものは残っていませんでした。
それでは昭和通りに戻って、もと来た道を引き返します。
神田川にかかる和泉橋をわたると、スタート地点のJR山手線・京浜東北線・総武線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレスが乗り入れる秋葉原駅昭和通り口に到着しました。
今回は平坦な道を約1.2㎞、神田・お玉が池周辺の歴史を感じた約1時間のコースでした。
時間のある方は、秋葉原の町散策や、仁正寺(西大路)藩上屋敷の江戸時代を通じてのお隣・谷田部(茂木)藩上屋敷まで足を延ばしてみるのもおススメです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)明治16
『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)
『近江蒲生郡志 巻四』滋賀県蒲生郡編(蒲生郡、大正11年)
『中央区年表 明治文化編』東京都中央区、1958
『千代田区史 中巻』千代田区役所、1960
『藩史大事典』谷田部藩の項
『新編千代田区史 通史編』東京都千代田区、平成10年
東京消防庁消防博物館HP
参考文献:
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
「仁正寺藩(西大路藩)」渡辺守順『三百藩藩主人名事典 第三巻』藩主人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1991)
『江戸幕藩大名家事典 中巻』小川恭一編(原書房、1992)
『千代田区史 区政史編』千代田区総務部、1998
「近江国西大路藩 市橋氏」『江戸時代全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)
「谷田部藩」田村竹男『藩史大事典 第2巻 関東編』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣出版、1989)
「仁正寺藩(改称・西大路藩)」渡辺守順『藩史大辞典 第5巻 近畿編〔新装版〕』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)
次回は、維新の殿様・大名屋敷を歩く、市橋家近江国仁正寺(西大路)藩本所五ツ目下屋敷編をおとどけします。
また、トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。
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