細川玄蕃頭登場【維新の殿様・常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)編①】

「谷田部藩」と「茂木藩」

藩というものは、まずその名を大切にすると思っていた私は、堀子爵家について調べている時に困ってしまいました。

常陸国谷田部と下野国茂木を領する細川家ですが、その藩の名称が、「常陸国谷田部藩」「下野国茂木藩」「常陸国茂木藩」「下野国谷田藩」など、実に様々な名でよばれていたのです。

これは、細川家が茂木と谷田部の二か所に居所を置く珍しい形をとったこと(『江戸幕府大名家事典』)が、藩名が混乱する大きな要因なのでしょう。

細川興貫子爵(Wikipediaより20210324ダウンロード)の画像。
【細川興貫子爵(Wikipediaより)】

そしてさらに、谷田部藩藩主細川興貫が、明治2年(1869)6月に版籍奉還を行ったのち、明治4年(1871)2月になって新政府に届け出て谷田部藩から茂木藩に名称を変更(『角川日本地名大辞典 栃木県』)、しかしすぐあとの7月には廃藩置県が断行されて藩そのものが消滅してしまったことが、混乱に拍車をかけてしまっているのです。

ここで藩名を整理すると、もともとは領地が茂木だけだったので茂木藩、元和2年(1616)に常陸国に加給されて谷田部に主居所を移してから江戸時代が終わるまでは谷田部藩、明治4年7月からは再び茂木藩となりました。

ちなみに、藩の名称は、『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』『人事興信録』『平成新修旧華族家系大成』などの近現代の文献の多くが「谷田部藩」の用語を使用していることに従って谷田部藩と呼びますが、できるだけ茂木藩の名前も併用したいと思います。

それでは藩の名が明確に定まっていないという不思議な藩について、まずはその歴史から見ていくことにしましょう。

「細川藤孝像」〔部分〕(南禅寺天授庵蔵)(『陸軍特別大演習記念特別展観図録』大阪市編(芸苑社、1933)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「細川藤孝像」〔部分〕(南禅寺天授庵蔵)『陸軍特別大演習記念特別展観図録』大阪市編(芸苑社、1933)国立国会図書館デジタルコレクション 】

藩租・細川興元(ほそかわ おきもと:1562~1619)

細川興元は、永禄5年(1562)細川藤孝(幽斎)の二男として生まれました。

天正5年(1577)父幽斎が信長の命を受けて松永久秀の属城・河内片岡錠を攻めた折、兄の忠興と出陣して軍功を挙げ、信長から感状を与えられています。

その後も、秀吉による越中国富山城の佐々成正攻めや小田原城攻め、朝鮮出兵と、兄・忠興とともに出陣して戦功をあげていきました。

関ヶ原の戦いでも兄とともに徳川家康に味方して軍功を挙げて忠興は豊前小倉に入封。

しかしその後、兄と不和となり小倉を去って京都に住みます。

兄の忠興は利休七哲に数えられる文化人でもありますが、玄蕃頭興元はかなりの武闘派、そのあたりが兄弟げんかの原因なのかもしれません。

「慶長十三年春東照宮、忠興兄弟を駿府にめされ、懇のおほせあるにより、兄弟和順す」とあって、家康の仲介で兄弟が仲直りしたことが分かります。

徳川家康画像(Wikipediaより2020.8.26ダウンロード)
【徳川家康画像(Wikipediaより)】

そして慶長14年(1609)には召されて二代将軍秀忠に仕え、翌年には下野国芳賀郡内で一万石を拝領、茂木に居所を構えて茂木藩を立藩しました。

慶長19年(1614)大坂冬の陣には酒井忠世麾下で出陣、翌元和元年(1615)大坂夏の陣では興元自ら奮戦、戦功をあげて常陸国筑波・河内両郡内に六千二百石の加増を受け、合わせて一万六千二百石を領することになったのです。

そして前述のように、元和2年(1616)に常陸国筑波郡谷田部に主居所を移して谷田部藩を立藩します(次の藩主興昌の時とする説もあります)。

しかし、そのわずか3年後の元和5年(1619)3月18日に56歳で興元は江戸柳原の上屋敷で没しました。(以上、『寛政重修諸家譜』)

興元はその官職名から「細川玄蕃頭」と呼ばれる武勇の人でしたが、その後の歴代藩主もこの「細川玄蕃頭」と名乗り続け、江戸っ子からもそう呼ばれることになったのです。

「細川藤孝夫妻、細川興元画像」〔部分〕(大徳寺高桐院蔵)(『陸軍特別大演習記念特別展観図録』大阪市編(芸苑社、1933))国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【細川興元(「細川藤孝夫妻、細川興元画像」〔部分〕(大徳寺高桐院蔵)(『陸軍特別大演習記念特別展観図録』大阪市編(芸苑社、1933))国立国会図書館デジタルコレクション 】

二代・興昌(ほそかわ おきまさ:1604~1643)

慶長4年(1604)に興元の長男として京都で生まれ、元和4年(1618)に家督を相続して二代藩主となります。

谷田部の城下町を建設し、藩政の基礎を固めまる一方で、茂木でも藤縄村に陣屋を設けて城下町を建設しています。(『寛政重修諸家譜』)

この結果、藩の行政的機能は谷田部・経済的機能は茂木という体制が確立して幕末まで維持されることになりました。

ちなみに、天保11年には、藩士139名のうち、江戸詰め61名、谷田部詰め31名、茂木詰め47名となっています。(『三百藩藩主人名事典』)

三代・興隆(おきたか:1632~1690)、四代・興栄(おきなが:1658~1737)の藩政は、領民の他領移住を許さない上に仕置きは厳しく、さらに課役も多くかけられたために、領民や家臣の不満が絶えませんでした。(『三百藩主人名事典』)

旧谷田部町(昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M28-13〔部分〕) )の画像。
【細川家が治めた谷田部(昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M28-13〔部分〕) 】

五代・興虎(おきとら:1710~1737)、六代・興晴(おきはる:1736~1794)でも享保8年(1723)常陸国で大風雨洪水が発生するなどの天災が起こって領内の農民が困窮するなかで、寛延2年(1749)には農民の強訴を禁ずる措置に踏み切っています。(『藩史大事典』)

その後も安永元年(1772)には旱魃と江戸の上屋敷が大火で焼失、翌安永2年(1773)には谷田部領内で旱魃が発生して飢饉が起こったうえに、そしてとどめともいえるのが天明3年(1783)の信濃国浅間山が大噴火したことにはじまる天明の大飢饉です。

『浅間山頂上噴火之図』(角田忠雄、1894 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『浅間山頂上噴火之図』(角田忠雄、1894 国立国会図書館デジタルコレクション)】

谷田部・茂木どちらも大凶作から深刻な飢饉となり、餓死者を出すまでになります。

さらには天明4年(1784)には谷田部領で飢饉が発生、天明6年(1786)には谷田部領内で洪水があったうえに江戸柳原の上屋敷が焼失、天明7年(1787)にも飢饉、天明8年(1788)4月には谷田部領で熱病が流行、7月には茂木領で大洪水が発生しました。(『藩史大事典』)

立て続けに起こった災害は、以前から悪化していた藩財政を破綻寸前までに追い込むとともに、農村を極度に疲弊荒廃させたのです。

こうして行き詰まりを見せ始めた谷田部藩ですが、歴代藩主たちはどのようにして事態の打開を目指したのでしょうか。

次回は、藩政改革と農村復興への取り組みを見ていきたいと思います。

浅間山の噴火(「大正9年12月26日ノ爆発」『浅間山爆発報告』長野測候所編(長野測候所、1921) )の画像。
【浅間山の噴火「大正9年12月26日ノ爆発」『浅間山爆発報告』長野測候所編(長野測候所、1921) 】

〔グーグルマップは谷田部陣屋跡を示しています。〕

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