結城秀康の越前入り【勝山藩小笠原家編(福井県)⑪】

前回みたように、関ケ原の合戦では越前の諸大名は西軍についたものが多く、みな取り潰されてしまいました。

今回は、関ケ原の合戦後に越前の領主となった結城秀康の時代をみてみましょう。

結城秀康入封

こうして秀康は、越前68万石の大大名となりましたが、これは家康が越前を「肝要の地」つまり戦略上の重要地と考えていたからにほかなりません。

というのも、最大の大名である前田家を北に控え、大坂にはいまだ豊臣家が健在ですから、彦根藩井伊家とともに、これらを抑える軍事的役目を期待していたのでしょう。

なおこの後、秀康は姓を松平に復していますが、彼の嫡男忠直から松平姓で記載していきます。

結城秀康(Wikipediaより20210119ダウンロード)の画像。
【結城秀康(Wikipediaより)】

秀康の領国支配体制

さて、北庄に入った秀康は、重臣たちを要所に配置していきました。

府中には本多富正3万6,730石、大野には土屋昌春3万8,000石、坂井郡丸岡には今村盛次3万5,050石などで、勝山には林長門が9,840石で入っています。

そして秀康は積極的に領国経営に乗り出しました。

城と城下町の整備に努めたほか、年貢制度や交通制度を整えて、藩政の基礎を確立したのです。

久世騒動

ところが、慶長12年(1607)閏4月8日に秀康が急逝してしまいます。

34歳での突然の死は、藩内に動揺を起こしたのは言うまでもありません。

秀康の跡を継いだ嫡男の忠直はまだ13歳でしたので、家老格の本多富正と今村盛次が藩主を輔弼する役目を果たすのが当然のこと。

ところが本多と今村は、筆頭家老の座をめぐって対立、家中を二分する争いにまで発展し、ついに慶長17年(1612)武力衝突にまで発展してしまいます。

これが久世騒動で、幼い藩主忠直にはこの騒動を納めることができず、幕府が介入せざるを得ませんでした。

幕府の裁可は本多富正の全面的勝利で、今村盛次一派はことごとく断罪されたのです。

このときに、勝山城主林長門こと定正も連座して山形藩最上家預けとなり、追放されています。

ちなみに、外様大名ならば取り潰し間違いなしのこの事態でも、徳川家康が忠直の責任を不問としました。

家康のこの寛大な措置は、夭折した秀康を想ったのか、はたまた孫がかわいかったからなのでしょうか。

「松平忠直」(Wikipediaより210119ダウンロード)の画像。
【「松平忠直」Wikipediaより】

この騒動のあと、勝山は越前藩の直轄となりました。

松平忠昌の越前入封

秀康の跡を継いだ松平忠直は、参勤を怠るなどの不行跡をとがめられて元和9年(1623)に隠居させられますが、これについては、津山松平家編「結城秀康から津山移封まで」をご覧ください。

寛永元年(1624)忠直のあとを嫡男の仙千代(のちの光長)が継ぐものの、大幅な減封のうえ越後高田に移されました。

しかしながら、前に見た越前が持つ戦略上の重要性は変わりません。

そこで、仙千代と入れ替わりに忠直の弟で越後高田にいた松平忠昌が入れ替わって越前に入ります。

忠昌の兄弟たち

ここであらためて、松平忠昌と兄弟たちについてみてみましょう。

結城秀康には成人した男子が、忠直・忠昌・直政・直基・直良の五人がありました。

長男の忠直は父の跡を継ぎましたが、忠昌はそのころに姉ヶ崎(千葉県市原市)で1万石をあたえられて大名になっています。

直政は15歳となった元和元年に、兄の忠直から1万石を内分知されたのをはじめ、寛永元年(1624)には直基、直良ともに大名に取り立てられました。

兄弟すべてが独立して大名となっているわけですが、家康の子にはじまるという家柄を考えると、当然のことなのかもしれません。

今回は、結城秀康の越前移封からその子忠直が改易されて忠昌がその跡を継ぐまでをみてきました。

次回は、勝山の領主が次々と変わった時期を経て、小笠原家が勝山に入封するまでをみてみましょう。

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