維新の殿様  松平定謨(まつだいら さだこと)【久松松平家・松山藩(愛媛県)⑧】

前回見たように、明治5年(1872)、久松家当主・定昭の死去にともなって久松定謨が継承します。

今回は、冒頭でみた『坂の上の雲』でも若殿様として登場する定謨の時代を見ていきましょう。(①話参照)

久松定謨(Wikipediaより2020.8.24ダウンロード)の画像。
【久松定謨(Wikipediaより)】

久松定謨(さだこと)

久松(松平)家の分家であった松平勝実の三男として慶応3年(1867)9月9日に生まれ、久松(松平)定昭の養子となり、明治5年に家督を継いだことは前にみたとおりです。

フランス留学

明治16年にフランスに留学し、20年にはフランス・サンシール陸軍士官学校歩兵科に入校、22年に卒業します。

このとき、旧家臣である陸軍騎兵大尉秋山好古がフランス騎兵戦略習得を理由に随従したのでした。

「陸軍大将秋山好古」(『秋山好古』秋山好古大将伝記刊行会編(秋山好古大将伝記刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「陸軍大将秋山好古」『秋山好古』秋山好古大将伝記刊行会編(秋山好古大将伝記刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション】

また、留学中の明治17年(1884)に伯爵を襲爵しています。

卒業と同時に陸軍少尉に任官してフランス陸軍・ツール歩兵聯隊に勤務したのち、明治24年に帰国しました。

「近衛第一第二歩兵連隊本部」(小島又市『最新東京名所写真帖』明治42年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「近衛第一第二歩兵連隊本部」(小島又市『最新東京名所写真帖』明治42年 国立国会図書館デジタルコレクション)】

軍人華族久松定謨

帰国すると陸軍近衛歩兵第2聯隊附となり、日清戦争では近衛師団長北白川宮能久親王の副官として出陣したのでした。

【「正岡子規(明治24年)」
(『明治大正随筆選集7』
(人文社、大正13年)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

このとき旧臣の子弟正岡升こと正岡子規が従軍記者となり、広島で定謨は彼に佩刀を授けています。

その後も順調に昇進、毎時35年からはフランス公使館付武官代理に任ぜられて渡仏して、ロシア皇帝の日露開戦決定の第一報を本国に打電しました。

そのまま日露戦争はフランスで勤務して39年に帰国します。

その後も40年に歩兵第三聯隊長を皮切りに軍歴を重ねて、大正5年に少将に昇進して歩兵第五旅団長に任じられました。

9年に中将に名誉昇進してその後に予備役に編入されます。(『華族総覧』)

死去

退役後は松山に戻り、農場を経営しながら暮らしていました。

大正13年(1924)に従二位、昭和11年(1943)には正二位に叙任されたのち、昭和18年(1943)に松山の邸宅で死去しています。

ここまで軍人としての久松定謨伯爵の生涯を見てきました。

次に諸侯華族(旧大名家の華族)としての側面から見ていきたいと思います。

定謨時代の久松家

定謨は前線に出ることはありませんでしたが、大変順調な軍歴を歩んできたのは前にみたとおりです。

彼は軍人らしく堅実に伯爵家の家政を行って、大正期の資産が三百万円以上、昭和初期には六百万円と大きく財産を増やしています。

常盤会設立

そして重要なのは、定謨がこの財産を使って旧領地の教育に積極的に投資したことです。

先代定昭の項でみたように、広大な浜町邸宅に付随していた旧紀州新宮藩士の暮らした「お長屋」を寮として開放して学生の事情によっては学資を給付する仕組みが作られました(⑦話参照)。

定謨はこれを発展させて、明治16年7月には久松家が出資して常盤会を設立し、20年には邸宅内に学生寮を造ります。

そしてこの常盤会ですが、場所を埼玉県東久留米市に移しつつも現在も運営されているから驚きです。

またのちに見るように、東京府日本橋区(現在の中央区)において明治6年に久松小学校が設立される際には多額の助成をしています(⑩話および「東京 橋の物語」 高砂橋編 参照)。

久松家別邸(『皇太子殿下行啓記念写真帖』愛媛県編(愛媛県、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【久松家別邸(『皇太子殿下行啓記念写真帖』愛媛県編(愛媛県、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

さらに大正10年には三十万円を投じて松山城の麓に鉄筋コンクリート三階建てのフランス風別邸の萬翠荘を建設し、松山の迎賓館として大いに利用されることになります。

また、大正12年には久松家の所有にあった松山城を松山市に寄付しています。

松山城(『日本名勝旧蹟産業写真集 中国・四国・九州地方之部』西田繁造編(富田屋書店、大正7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【松山城(『日本名勝旧蹟産業写真集 
中国・四国・九州地方之部』西田繁造編
(富田屋書店、大正7年)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

このように、定謨は人材育成や松山の発展に努めた「名君」的な側面も持っていたのです。

そして松山で人望を得た久松家を、長男の定武が継承しています。

次回ではこの定武の時代を見てみたいと思います。

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