織田子爵邸跡と柏原藩上屋敷跡地 【維新の殿様 織田家柏原藩(兵庫県)編】⑦

前回は織田家活躍の舞台となった江戸の柏原藩下屋敷の跡を巡りました。

今回は、幕末までの柏原藩上屋敷跡と明治時代初めの織田子爵邸跡を訪ねてみましょう。

柏原藩上屋敷

まず、はじめに浅草寺町にあった上屋敷跡を訪ねてみましょう。

柏原藩下屋敷(『今戸箕輪浅草絵図』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年(1853))国立国会図書館デジタルコレクション)の地図画像。
【柏原藩下屋敷(『今戸箕輪浅草絵図』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永6年(1853))国立国会図書館デジタルコレクション)(赤○部分)】

現在の住所では、東京都台東区松が谷三丁目に当たり、中小の会社や住宅が入り混じる町です。

柏原藩織田家上屋敷推定位置の地図画像。
【柏原藩織田家上屋敷推定位置(住宅案内図に加筆)】

そして藩邸の敷地のうち北半分は、現在の入谷南公園となっています。

この公園は関東大震災の復興で街路整理が行われた際に作られたものです。

この界隈は震災復興の区画整備で大幅に街区が変わっていますので、江戸時代の痕跡はほとんど残っていません。

また、現在は敷地の中央部付近に秋葉原神社が鎮座しています。

この神社は、明治のはじめに英照皇太后(明治天皇の母君)が、町で火事が頻発することを憂いて火伏の神を勧請したことが始まりで、当初は秋葉原にあったのです。

じつはこの神社が秋葉原の名の由来、関東大震災からの復興事業で秋葉原駅の拡張と生花市場開設の用地確保のために、この地に移設されました。

今では町の鎮守様として住民たちから信仰を集め、大切に守られています。

上屋敷のあったこの場所は、江戸時代後期には浅草のはずれのいわゆる浅草田圃と寺町の境にあたっています。

「江戸名所百景 浅草田甫酉の町詣」(歌川広重(魚栄、安政4年(1857))国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「江戸名所百景 浅草田甫酉の町詣」歌川広重(魚栄、安政4年(1857))国立国会図書館デジタルコレクション】

新吉原や浅草観音に行く人が通る場所としてよく知られ、浮世絵の題材にもなった場所でした。

幕末には柏原藩上屋敷は三田に移転して、この場所は抱え屋敷になったようです。

織田子爵邸跡

最後に、浅草小島町にあった織田子爵邸の後を訪ねてみましょう。

織田信親邸(『明治東京全図』明治9年 国立公文書館デジタルアーカイブ)の地図画像。

現在の住所は東京都台東区小島一丁目にあたり、中小の会社とマンションが入り混じる場所となっています。

織田子爵邸推定地の地図画像。
【織田子爵邸推定地】
金の星社 本社の画像。
【金の星社 本社ビル】

この敷地の一角には百年を超える歴史を誇る子供向け書籍の出版社・金の星社が本社を構えています。

また、ここはかつての越後国柳沢家上屋敷の東半分でした。

廃藩置県の後も柳沢家上屋敷の西半分はそのまま柳沢子爵家の屋敷地となっています。  

西に目を向けると、70mほどで三味線堀に当たり、その向こうには広大な佐竹っ原(江戸時代の久保田(秋田)藩佐竹家上屋敷)が見えています。

佐竹商店街入口の画像。
【佐竹商店街南入り口】

ここには現在、佐竹商店街があって、訪れた日も買い物客が」訪れていました。

今度は表通りから少し裏に回ってみましょう。

ここは表通りとは打って変わって、静かな住宅街が広がっています。

木造二階建て家屋がまだまだ残っていて、昔ながらの下町の暮らしを垣間見ることができました。

織田子爵邸跡地の路地の画像。
【織田子爵邸跡地に残る路地】

信親はおよそ6年間この場所に邸宅を構えていたのですが、それはちょうど宮内省への出退を繰り返していたころに当たります。

彼は一体、どのような気持ちでここに暮らしていたのでしょうか。

そしてその後はこの地を売却して芝区西ノ久保巴町、さらには渋谷へと居を移しています。

これは、他の華族との交流に積極的でなかった信親ですから、華族の邸宅が集まるこの辺りは住み心地がよくなかったのかもしれません。

ひょっとすると、東京の下町での暮らしは性に合わなかったのかもしれませんね。

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