露梁海戦【筑後国柳川藩立花家(福岡県)13】

前回は、第二次蔚山城攻防戦での宗茂の活躍をみてきました。

そこで今回は、朝鮮出兵最後の激戦、露梁海戦への道をみてみましょう。

泗川城攻防戦

さて、戦況は、慶長3年(1598)10月1日に島津軍8,000が守る泗川城を明・朝鮮連合軍2万8,000が攻めるものの、逆に壊滅させられたことが大きな転機となりました。

『薩摩 品津兵庫守義弘』歌川芳虎(Wikipediaより20211205ダウンロード)の画像。
【『薩摩 品津兵庫守義弘』歌川芳虎(Wikipediaより)】

この結果、明・朝鮮連合軍の戦略が崩壊、明軍は戦意を喪失して蔚山と順天からも撤退したのです。

島津義弘の鬼神の如き働きによって、明軍に和平の機運が高まったのは、日本軍にとって最上の結果となりました。

というのも、泗川城攻防戦がはじめる前の8月18日に秀吉はすでに死去していたのです。

そして秀吉の死を秘匿しつつ、10月15日には日本軍全軍に撤退命令が出されました。

こうして日本軍はすみやかに撤退を開始したのですが、これに納得がしなかったのが、朝鮮水軍の名将・李舜臣でした。

露梁海戦

李舜臣は、11月10日、約定を破って順天城に籠っていた小西行長軍の撤退を阻んだのです。

すでに撤退のため巨済島に集結していた島津義弘、宗義智、小早川秀包、筑紫広門、そして立花宗茂と高橋統増の兄弟に、撤退の差配のため出向いていた寺沢広高は、小西軍救援軍を編成します。

そしてにわか仕立ての水軍は、17日夜に順天にむけて出航すると、この動きを察知した明・朝鮮連合水軍も迎撃のため小西軍への包囲を解いて、決戦の地・露梁津へと進みました。

露梁海戦闘要図、文禄2年正月26日(『日本戦史 朝鮮役・経過表附表付図』)参謀本部 編(偕行社、大正13年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【露梁海戦闘要図、文禄2年正月26日(『日本戦史 朝鮮役・経過表附表付図』)参謀本部 編(偕行社、大正13年)国立国会図書館デジタルコレクション )部分に加筆 日本水軍は赤、明・朝鮮連合水軍は黒で表示しています。】

18日未明、順天へ進むために露梁津を抜けようとした日本軍に、明・朝鮮連合水軍が襲い掛かります。

島影に潜んでいた連合軍は南北から日本軍を挟撃、これに対して偵察を重ねて用心していた先鋒の立花・高橋軍が迎撃すると、連合軍先鋒を後退させることに成功します。

ところが先鋒が後退したために明水軍主力が変わって前進、島津軍はじめ日本軍諸隊と入り乱れての乱戦となったのです。

島津軍が大きな損害を出したために日本軍は撤退をしいられますが、このスキをみて小西軍は見事に撤退に成功し、作戦の目的は達せられました。

海戦で勝利したとはいえ、朝鮮軍は明軍副将鄧子龍、朝鮮軍主将李舜臣をはじめ多くの将官が戦死するなど、甚大な被害を出したうえに、小西軍に無傷で退却されています。

1970年代の李舜臣の100ウォン銀コイン(Wikipediaより20210829ダウンロード)の画像。
【1970年代の李舜臣の100ウォン銀コイン(Wikipediaより)】

鬼将軍・宗茂

こうして立花宗茂は、不慣れな海戦でも功をあげました。

生前の秀吉は、宗茂の働きを「日本無双の勇将」と激賞していますし、「鬼神も敵す可らざる御功績」「鬼将軍」などの勇名の数々が贈られたのです。

また、文禄2年(1591)4月3日に、碧蹄館の戦いでの戦功を賞して感状が与えられたうえに、4月12日に小早川隆景や毛利元康らとともに、厩馬を与えられました。

しかし、朝鮮出兵での宗茂の働きと、犠牲の大きさを考えると、得たものはあまりにも小さいように思えてなりません。

こうして秀吉の死によって、ようやく朝鮮出兵は終わりを迎えました。

そこで、次回は秀吉亡き後の天下分け目の大戦、関ケ原の合戦のころの宗茂をみてみましょう。

《朝鮮出兵のうち、碧蹄館の戦い以降の原稿は、『日本戦史 朝鮮役』『福岡県史』『福岡県の歴史』をもとに執筆しました。》

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