関東大震災(柳北小学校その7)

前回、柳北女学校が発展して柳北尋常小学校が設立され、木造三階建校舎が建設されるまでをみてきました。

今回は、突如地域に壊滅的被害をもたらした関東大震災と、そこからの復興をみていきましょう。

関東大震災と復興校舎

大正2年(1913)に木造三階建新校舎が完成すると、学級数・生徒数ともに増加して、大正5年(1916)には22学級1,207名(男子608名・女子599名)、大正10年(1921)には18学級1,113名(男子516名・女子547名)となります。

「柳北尋常小学校、大正2年ごろ」(『浅草区誌』下巻、東京市浅草区編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「柳北尋常小学校、大正2年ごろ」『浅草区誌』下巻、東京市浅草区編(文会堂書店、大正3年)国立国会図書館デジタルコレクション】

前にみた横浜への児童管外旅行をはじめ、地域の手厚い支援もあって充実した教育環境ものと、子供たちが楽しく学んでいた時でした。

そこへ突如、大正12年(1923)9月1日関東大震災発生が発生、翌2日には地震による火災により三階建木造校舎全焼してしまいます。

『柳北百年』に掲載された、この時の模様を生徒たちの証言から見てみましょう。

地震発生

「突如として大揺れが始まったとき、私は座敷にいたが、南側の廊下から風呂場の前を通って裏木戸を開け、村上邸(わが家の近くの旧大名屋敷)の生垣のところに出てそこにつかまって地震の鎮まるのを待った。

座敷から裏木戸を開け、生垣に出るまで、ころびころび、やっとの事で飛び出したが、生垣につかまってからも大分ゆすられた。したがって時間は、相当長かったし、また、ゆれも、前後と上下に、それこそ20~30㎝位いも、ゆっさゆっさと不気味に揺れ、それこそ天地がひっくりかえるのかと思った。(略)

地震が納まったと思うと暫くするとまた、ひっきりなしに小さいゆれがやって来るので、安心して家の中に居る訳に行かず、生垣につかまって一日をすごした。私達ばかりでなく近所の方々も黒山のように来ていた。」

地震の被害

「私の住んでいた家や近くの家は、皆木造であったが、瓦の落ちた程度で、倒壊した家はなかった。只裏手の教会の煉瓦造の建物が倒壊した。」

『関東大震災画報 写真時報』表紙(写真時報社 編集・発行、大正12年、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『関東大震災画報 写真時報』表紙、写真時報社 編集・発行、大正12年、国立国会図書館デジタルコレクション 】

震災による火災の爪痕

「地震によって、向柳原周辺では、出火した家はなかった。しかし時間の経過と共に遥か遠くの方に火の手が見え始め、それが段段つながって火の壁となり、上野公園の一角の空を残す丈となった。」

このあと、ご近所に住む夫婦の協力を得て、何とか上野公園に避難しています。

「火災後、焼け跡に立ち寄ってみたが、煉瓦やコンクリートの構築物の残骸が残っている他は、殆んど焼けつくして、土と瓦と小石がごろごろしていた。」

白石ヌヒ子先生の奮闘

また、『大正震災美績』には柳北小学校の白石ヌヒ子訓導の体験が掲載されています。

白石訓導は、夫を病気で亡くし、女手一つで三人の幼子を養っていました。

震災に伴う劫火の中で長男を負ぶって逃げ惑った末に、子供たちと生き別れとなったものの、周囲の人戊との献身的サポートで奇跡的に家族が再開する物語は、『柳北百年』に原文のまま転載されています。

迫りくる大火災

また、大震災に伴う火災の様子は、『浅草区市 関東大震災編』に詳しく掲載されています。

これによると、震災直後の大正12年9月1日午後0時30分ころ、蔵前高等工業学校(のちの東京工業大学)から出火、浅草区南部を広く焼き尽くしますが、午後5時ごろに風向きが変わったことと消火隊の奮闘で、福井町から向柳原の一部で下火になりました。

ところが、午後8時ころから強風が吹き始めるとともに風向きが変わり、蔵前の専売公社工場付近から火の手が上がると、火の手は浅草橋方面に向かって広がっていきました。

さらに、神田川南岸から進んできた火の海と合わさって向柳原一帯を焼き尽くして神田佐久間町方面へと進みました。

しかし、なんとこの時も消火隊の奮闘により、柳北小学校はまだ焼けていません。

神田駅より見たる上野方面(『大阪朝日新聞』大正12年9月7日付夕刊、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【神田駅より見たる上野方面(『大阪朝日新聞』大正12年9月7日付夕刊、国立国会図書館デジタルコレクション)】

校舎消失

震災発生翌日に、焼け跡に残る火が再び燃えあがって、焼け残った街々を焼き尽くして上野方面へ火の手が進んだのです。

この時、なんとか守ってきた柳北小学校の木造三階建校舎は全焼してしまいました。(『柳北百年』)

大震災による火災の傷跡はすさまじく、浅草区全体の96%にあたる約4.6㎢が消失してします。(『浅草区史 関東大震災編』)

浅草十二階(『大正12年東京大震災写真画帖』高橋又治(文光堂、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【浅草十二階『大正12年東京大震災写真画帖』高橋又治(文光堂、大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

授業再開

校舎は全焼してしまいましたが、不幸中の幸いは、公簿類全部が焼けることなく搬出できたので、なんとか学校をすみやかに再開する見込みが立ったことです。

とはいえ、学校を何とか再開できたのは、1ヶ月後のことでした。

10月1日に児童を招集して焼跡にテントを張って露天授業を開始しています。

その後、12月には木造の仮校舎建設、一時は800名(男子398名・女子402名)にまで減った児童数も増加に転じて、不便の間にも授業を続けたのです。(『浅草区史 関東大震災編』)

柳北小学校の復興

全焼してしまった柳北小学校の復興の歩みを、年代順にたどってみましょう。

大正14年(1925)3月、向柳原二丁目一番地松浦伯爵屋敷地に新校地1,326坪9勺を買収。

震災に伴う火災で焼失した松浦伯爵家は邸宅を小石川に移しましたので、その跡地を購入して南端部分を校地にあてたのでした。(『浅草区史 街衢編』)

大正14年(1925)11月には鉄筋コンクリート三階建新校舎着工し、12月7日に地鎮祭を挙行しています。

新校舎完成

新校舎建設は順調に進み、大正15年(1926)7月24日には上棟式を挙行、ついに11月10日には新校舎が竣工します。

完成した校舎は、浅草区内で最初の鉄筋コンクリート三階建校舎で、校地面積は1,326.9坪、校舎延面積1,590.7坪と震災前よりも大幅に拡充しています。

建設費770,376.84円の新校舎は、復興小の中でも最も大きい32学級を抱え、柳北小学校は東京でも有数の大規模小学校となったのです。

また、大正15年(1926)9月には柳北小学校復興後援会を結成して、地元地域からも柳北小学校の復興をサポートしました。

新校舎落成式

昭和2年(1927)5月23日新校舎の落成式挙行、府知事、東京市長をはじめ多数の来賓を迎え、頗る盛大に挙行されました。

またこのとき、復興後援会より12,400円余の寄付金がよせられて、多数の教授機械器具等を寄贈され、設備面でも最新の小学校となったのです。

(以上『浅草区史 関東大震災編』『浅草区史 行政編』『柳北百年』による)

こうして関東大震災による危機を乗り越えた新生柳北小学校は、昭和7年3月12日に児童16名、高桑訓導とともに唱歌をNHKラジオより放送するなどの成果を上げていました。

また、同年12月には総武線浅草橋駅が開業して、町全体がさらに賑やかとなり、柳北小学校はますます活気に満ちた小学校となっていったのです。

昭和17年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、C29D‐C1-17〔部分〕)の画像。
【震災から復興した町の様子 昭和17年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、C29D‐C1-17〔部分〕)中央が柳北小学校 】

そんな中、この平和な学校を突如、悲劇が襲うことになります。

次回は校長毒殺事件についてみていきましょう。

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