隅田川の船遊び 江戸っ子の夏の定番

江戸の舟遊びってどんなもの?

江戸には大川(隅田川)をはじめ、あまたの川や掘割が流れると共に江戸湾がまじかに迫る地形もあって、江戸っ子は舟遊びが大好きでした。

春の花火舟、夏のハゼ釣り舟、冬の雪見舟と、季節を楽しむ船遊びは、古くは慶長年間から始まったともいわれています。

数ある舟遊びの中でも、最も人気を誇ったのが夏の暑さを避ける涼舟です。

ここでは涼舟を中心に、江戸からの舟遊びと遊興舟の歴史について見てみましょう。

なおこの文章では、船頭が竿で操作するものを舟、多人数が櫂で動かしたり動力付きのものを船と呼ぶことにします。

歌川広重「両国納涼大花火」弘化4~嘉永5(1847~1852)の画像。
【歌川広重「両国納涼大花火」弘化4~嘉永5(1847~1852)
花火見物の多くの舟、橋の上の鈴なりの人々。】

涼舟ってなに?

涼舟とは、夏の暑さを避けるために川や海に船を出しす舟のことです。

『江戸惣鹿子』(元禄2年(1689)刊行)には、「六月中より八月末迄三ツまた、両国橋、涼船にて出るなり」と記されていることからも、舟を利用しての涼みが盛んに行われたことがうかがえます。

『増補江戸年中行事』(刊行年不明)には涼舟の舟宿が列挙されていますが、その中にも両国柳橋の舟宿も数多く挙げられています。

一方で、万治2年(1659)に両国橋がかけられると陸上からの涼みも盛んになって、納涼と言えば両国橋と定まるようになります。

『東都歳時記』(天保9年(1838)刊行)には、「此地は、四時蕃昌なるが中にも、納涼の頃の賑はゝしさは余国にたぐひすべき方はあらじ」とたくさん集まった涼舟と見世物などで賑わう両国橋界隈の様子を今に伝えています。

柳ばし納涼盆おどりポスターの画像。
【中央に柳の枝と屋形船が描かれた柳橋盆おどりのポスター。
屋形船は柳橋のシンボルになっています。】

両国の川開き

両国に納涼シーズンは旧暦の5月28日から8月28日までと決められていました。

そして納涼シーズンの到来を告げたのが、両国の川開きです。

両国橋の架橋と同じころに始められた川開きは、享保12年(1727)からは仕掛け花火と大花火が加わって江戸に夏の到来を告げる行事として広く知られることとなります。

涼舟から川開きの花火を眺めるスタイルが広まって行ったのでした。

また、鳥越神社の水上祭や浅草神社の船渡御といった地域の伝統行事にも使われるようになるとともに、「舟徳」などの古典落語の題材になるなど、江戸っ子にとって身近な身近な存在になっていきます。

鳥越神社の水上祭に向かう屋形船の船団の画像
鳥越神社の水上祭に向かう屋形船の船団。】

舟遊びに使う舟は?

涼舟として使われたのは底が平たい小型の船に屋根をかけた屋形船(屋根付き舟)が主流で、棹を操って船頭が数名の乗客を乗せるものでした。

この状況は、昭和40年頃(1965ころ)まで続くこととなります。

少数ですが、大名が作った華麗な大型の屋根付き船(御座舟)がありましたが、大名の接待用で江戸っ子たちは利用できません。

豊原周延「千代田之御表 大川筋御成」(1897、メトロポリタン美術館)の画像。
【豊原周延「千代田之御表 大川筋御成」1897メトロポリタン美術館
御座船の中でも最大かつ最も華麗な将軍の御座船。三階建の巨大船で櫂で進みます。】

明治末に柳橋に住んだ島崎藤村は舟遊びの愛好者でした。

早朝に小舟を借りて自分で漕ぎまわったり、姪たちを乗せてみたりしたことを書き記しています。(「新生」『藤村全集第7巻』島崎藤村1967筑摩書房)

藤村が毎日のように遊んだのはオールを使う小型の舟ですが、主流はやはり船頭が棹で操る小型の屋根付き舟でした。

例えば、田山花袋が出版社勤務時代に藤村に依頼して大型の屋形船を探していますが、藤村は船宿・東屋から八人乗りが一艘あるのみとの答えを伝えています。(「5月26日浅草新片町より日本橋区本町3丁目博文館編集局・田山花袋宛」『藤村全集第17巻』島崎藤村1968筑摩書房)

柳橋に残る木造屋形船の画像
【柳橋に一隻だけ残る木造屋形船。
明治時代の大型屋形船は子の舟より一回り小さかったと思われます。】

舟から船へ

ところが高度経済成長期に入ると、隅田川の河川環境が急速に悪化していきます。

さらには運輸の中心がトラック輸送へと変わっていく中で、河川の舟運はほとんど用いられなくなっていきました。

そのために河川底の浚渫が行われなくなり、それが河床の上昇を招く、洪水の危険性が増すので堤防を高くする、すると堤防のために舟を料亭に横付けできなくなる、という悪循環に陥ってしまいます。

そのため、新たに船着き場となった神田川や隅田川の船宿から乗る形になり、花柳界と川舟の結びつきが失われていきました。

これに水質悪化に伴う悪臭問題が追い打ちをかけて、料亭遊びの延長としての舟遊びはすっかり下火になってしまいます。

将軍の御座船をモチーフにした現在の屋形船の画像。
【現在の屋形船。将軍の御座船をモチーフにしたようで、漕ぎ手の座の痕跡が残っています。】

そして船着き場の変更や悪臭問題へ対処するために、船宿は船を大型化させていきます。

前にみたように、明治末には一艘だけだった大型の屋形船が、高度成長期以降は船遊びの主流になっていったのです。

この船の大型化はバブル期まで続き、かつて大名が保持していた御座舟をモデルとして複数エンジンを搭載した大型の川船が主流となっていきます。

現在はさらに新素材を使用するなどしてさらに大型化するとともに、それまで紅灯提灯程度だった飾りが大幅に増えて、不夜城の様相を呈するまでになっています。

夜の隅田川を遡上する屋形船の列の画像。
【夜の隅田川を遡上する屋形船の列。華やかな電飾が水面に映え、ライトアップしたスカイツリーと共演しているようです。中央橋脚はJRの隅田川橋梁です。】

船遊びの

現在でも一人一万円ほどで、料理と飲料付き二時間程度の船遊びが行われています。

しかし船が大型化したので、最小携行人数を引き上げて二十人程度とする船宿が多くなっています。

一部では数名から参加できる乗合スタイルで運行している船宿もありますので、船遊びを体験したい方はチェックしてみてください。(2019年夏の時点で、柳橋発着の船宿で乗合運航しているのは三浦屋と田中屋の二軒です。)

レジャーの多様化や個人主義の広がりなどの社会状況が変化したことで、大人数での宴会が減る傾向にあるのと連動して屋形船の需要は減少傾向にあります。

その一方で、外国人旅行者を中心に現在人気を博しているのが水上バスです。

東京スカイツリー前を航行する水上バスのヒミコの画像
東京スカイツリー前を航行するヒミコ。エスメラルダ、ホタルナとともに、東京リバーサイド観光の顔になっています。】

水上バスは、江戸時代から続く交通手段としての乗合船が発展したものです。

浅草吾妻橋から発着して浜離宮・お台場を結んで運行する水上バスは、手軽に隅田川からの眺めを楽しめることから国内外の観光客に大変人気があります。

手軽な料金で予約なしでも利用できるうえに、発着本数も多いことから気軽に利用できるのが大きな魅力となっています。

一方、水上バスに主役の座を奪われつつある船遊びと船宿も、落語船やお座敷遊びができる船などを企画して、新たな魅力の発掘と発信に努めています。

いずれにせよ、船遊びは変わりゆく東京の姿を水の上から眺められるだけでなく、手軽に非日常体験ができるとても楽しいイベントです。

江戸の頃から続く伝統ある隅田川の船遊びが、これからも大切に受け継がれることを心から望むところです。

この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。また、引用文献はその都度記載させていただきました。

『藤村全集』島崎藤村1966~71 筑摩書房、『国史大辞典』吉川弘文館1979~97、『日本史大辞典』下中弘編 平凡社1992、『日本風俗史事典』日本風俗史学会編1979、『日本民俗学大辞典』福田アジオ編 吉川弘文館2006、『江戸東京学事典』小木新造ほか編 三省堂1987、『江戸学事典』西山松之助ほか編 弘文館1984、『隅田川の歴史』かのう書房1989、『都市の川 -隅田川を語る-』隅田川市民交流実行委員会1995岩田書院

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