5月1日・今日なんの日?

日本赤十字社の前身・博愛社が設立された日

5月1日は、明治10年(1877)に日本赤十字社の前身・博愛社が設立された日です。

日本赤十字社、通称・日赤は、赤十字国際委員会の承認を受け、赤十字の精神にのっとり、人道的任務の達成を目的とする特殊法人。

明治10年(1877)5月1日、西南の役の負傷者救護のため、元老院議官佐野常民や大給恒らによって設立された博愛社にはじまります。

そこで、今回は博愛社の成立についてみてみましょう。

佐野常民(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【佐野常民(出典:近代日本人の肖像)】

博愛社設立

日本赤十字社の前身・博愛社は、元老院議官の佐野常民(さの つねたみ)と大給恒(おおきゅう ゆずる、旧田野口藩主)が、西南戦争さなかの明治10年(1877)に熊本洋学校で設立しました。

佐野は、明治10年(1877)4月6日に博愛社設立の願書を太政官に提出します。

ところが、太政官は設立の趣旨が理解できなかったために聞き届け難き旨を回答し、設立を許可しなかったのです。

有栖川宮熾仁親王(『熾仁親王日記』有栖川宮熾仁親王(高松宮家、1935)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【有栖川宮熾仁親王(『熾仁親王日記』より)】

そこで、九州出張の機会を利用して5月1日に熊本に到着し、征討総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王に設立を願い出たのです。

熾仁親王は、敵味方ともに天皇の臣民として区別なく救護する精神をよしとし、独自の権限で設立を即日、許可します。

さっそく救護活動を開始した博愛社は、西南戦争で救護したものが明瞭なものだけで1,429名、救護の総費用は7,040円でした。

西南戦争救護状況(『日本赤十字社五十年小史』日本赤十字社 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【西南戦争救護状況『日本赤十字社五十年小史』より】

日本赤十字社に改称

明治19年(1886)日本がジュネーブ条約に参加したので、翌年2月日本赤十字社に改称、9月に赤十字国際委員会から公認されました。

明治34年(1901)勅令により日本赤十字社条例が成立、さらに明治43年(1910)に定められた新条例により、陸・海軍の戦時衛生勤務を助けるものとされました。

第二次世界大戦での敗戦により公認の資格を失うものの、昭和27年(1952)日本赤十字社法が制定されて特殊法人として再出発し、昭和28年(1953)ジュネーブ条約復帰とともに全面的な活動を開始しました。

現在は東京に本部、都道府県に支部が置かれ、全国に病院、血液センター、社会福祉施設、看護短大などが設置されています。

また、日本赤十字社は国際赤十字の一員として、国際活動・災害救護・医療事業などを行っているのです。

濃尾地震救護岐阜県大野郡古橋村本社診療所(『日本赤十字社五十年小史』日本赤十字社 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)
【濃尾地震で救護のために岐阜県大野郡古橋村の診療所『日本赤十字社五十年小史』より】

ろころで、佐野常民はどのようにして博愛社の構想を得たのでしょうか。

次に佐野の経歴を追いつつ、博愛社設立までの道のりをみてみましょう。

佐野常民

佐野常民は、文政5年(1822)12月28日に肥前国佐賀郡草津江村の佐賀藩士・下村光賢の五男として生まれ、天保3年(1832)藩医佐野常徴の養子となり、佐野家を継ぎました。

藩校・弘道館で学んだあと、京都の広瀬元恭、大坂の緒方洪庵、江戸の戸塚静海・伊東玄木に学んで洋学と医学を治めます。

佐賀藩は嘉永6年(1853)鉄製鋳砲局精煉方を設けると佐野を主任に任じました。

ここで研究を進めた結果、蒸気船と蒸気機関車の模型製作に成功、さらに文久3年(1863)には蒸気船凌雲丸を建造する画期的成果をあげたのです。

佐野常民(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【渡仏したころの佐野常民(出典:近代日本人の肖像)】

佐野の赤十字の出会い

このような成果から、慶応3年(1867)パリ万博のために渡仏を命じられます。

じつはこの時、1867年にスイス人アンリ・デュナンによって設立された赤十字が、パリ万博と同時期に第1回国際会議を開催するとともに、万博で展示館を設けていたのです。

この展示館で救護品などを見学した常民は、赤十字の精神に感銘を受けました。

帰国後は研修結果を新政府にもたらすとともに、海軍創設に尽力、さらに新政府発足後は兵部省・工部省に出仕して活躍します。

そんななか、明治6年(1873)、常民は博覧会総裁としてウィーン万博参加に参加するためにオーストリアへ向かったのです。

この時、常民は忙しい公務の合間を縫って、赤十字について調査研究に取り組みました。

西南戦争

常民が帰国すると、明治10年(1877)に西南戦争が勃発しました。

戦争では多くの死傷者が出ていることを知った常民は、同じく元老院議官の大給恒と相談したところ賛同を得て、ヨーロッパの赤十字にならった博愛社の設立を決意します。

こうして明治10年(1877)4月6日に太政官へ博愛社設立の願書を提出したことからは、冒頭でみたとおりです。

設立時の本社(『日本赤十字社五十年小史』日本赤十字社 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【設立時の本社『日本赤十字社五十年小史』より】

その後の佐野常民

佐野は、明治20年(1887)に博愛社が日本赤十字社に改称されると、初代社長に就任、ちなみに副社長は大給でした。

大給恒(『日本赤十字社五十年小史』日本赤十字社 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大給恒『日本赤十字社五十年小史』より】

その後、大蔵卿、元老院議長、農商務大臣などを歴任し、政府内で独自の開明的地位を保ちつづけました。

いっぽうで佐野は、明治12年(1879)日本美術の伝統の擁護と啓蒙を目的として、九鬼隆一らと美術団体・竜池会、のちの日本美術協会を結成しています。

現代につながる業績を上げた佐野は、明治35年(1902)12月7日、静岡県沼津で81歳の生涯を閉じました。

(今回の文章は、『日本赤十字社五十年小史』(日本赤十字社 編集・発行、大正15年)と『国史大辞典』『事典 近代日本の先駆者』の関連事項を参考に執筆しました。)

きのう(4月30日

明日(5月2日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です