芦田均が亡くなった日
6月20日は、昭和34年(1959)に政治家の芦田均が亡くなった日です。
「最後のリベラリスト」と称えられた芦田の、栄光と挫折の人生を振り返ってみましょう。
「最後のリベラリスト」誕生
芦田均(あしだ ひとし)は、明治20年(1887)11月15日に京都の旧家に三男三女の二男として生まれました。
父・鹿之助は、政友会の代議士を務めたことがある政治家です。
5歳のとき、ジフテリアにかかって家族の献身的な看病で何とか全快しましたが、その時に母・しげ、二人の姉・はる、よしの3人が感染して命を落としてしまいます。
明治45年(1912)に東京帝国大学法科大学を卒業して外務省に入ると、ロシア・フランス大使館、本省情報課長、トルコ・ベルギー大使館などに勤務しました。
ロシアへと赴任した時には、第1次世界大戦が勃発。
さらには大正6年(1917)にロシアで2月革命、10月革命がつづけて起こり、ロシア革命を身近で体験します。
大正8年(1919)にはパリ講和会議に西園寺公望・牧野伸顕両全権の随員として参加するという、外交官としての幸運に恵まれています。
その後、ベルギー代理大使の任にあったとき、満州事変が勃発、これを機に辞職して帰国しました。
昭和7年(1932)2月の総選挙で、京都で立候補して当選、以後政友会の外交通として存在感を増して、当選11回を重ねます。
芦田は、一貫して軍の独走に対して批判的な態度をとり、昭和8~15年(1933~1940)にジャパン・タイムス社長にあって、メディアを通じて軍部主導の日本外交を批判しました。
さらに、第七十五議会では、反軍演説問題による斎藤隆夫の除名に反対、大政翼賛会結成にも参加していません。
戦後の活躍と首相就任
戦後は、いちはやく鳩山一郎・安藤正純らとともに政党再建に乗り出して、日本自由党結成に参加しましたが、そのいっぽうで幣原内閣にも厚生大臣として入閣し、第一次吉田内閣のもとでは衆議院憲法改正特別委員長をつとめています。
修正資本主義を掲げて次第に自由党主流から離れ、昭和22年(1947)3月には脱党して日本進歩党を中核とした民主党の結成に参加すると、5月の大会で総裁に就任し、片山内閣に外務大臣として入閣します。
1948年2月10日に片山哲内閣が総辞職を表明すると、次の新政権選びは難航を極めます。
野党の自由党は憲政常道論をとなえて吉田茂総裁を首相に推しますが、社会・民主・国民協同の与党三党は、いわゆるたらい回しで芦田民主党総裁を首相候補に立てて対立したのです。
結局、占領軍の意向が強く働いて、衆議院は芦田、参議院は吉田と首班指名が食い違う中で、三党連立政権の継続が決定しました。
とはいえ、成立した芦田内閣はたえず民主・社会両党の内部対立と社会党左派の独走に振り回されたうえ、あいつぐスキャンダルに悩まされ続けます。
また、片山内閣で昭和22年(1947)10月に制定されて、翌年7月に施工された国家公務員法について、占領軍総司令部は、公務員の争議行為の禁止などを求める指令を発し、芦田内閣は7月31日に政令二〇一号を交付するに至ったのです。
昭電疑獄と内閣総辞職
このような状況で、芦田内閣の実力者・副総理の西尾末広は、政治献金の届け出を怠った問題を国会で追及されて、7月に国務省を辞任し、政令違反と偽証罪で起訴されました。
さらにこの年の春から秋にかけて、昭和電工・日野原節三社長が復興金融公庫の融資増額を求めて、政財官界に金品をばらまいた一大疑獄が暴露されたのでした。
これが昭電疑獄で、栗栖赳夫経済安定本部長官、西尾前副総理が逮捕されて、ついに内閣の命運が尽きたのです。
昭和電工疑獄事件は首相辞任後も続き、12月にはみずからも逮捕・起訴されてしまいます。
この昭電疑惑は、GHQ民政局がバックアップする芦田内閣に対して、民政局と対立していたGHQ参謀第二部が仕掛けた謀略とする見方があるくらい複雑な事件でした。
また、ここで受けた芦田の政治的傷は深く、最後まで政治的影響力を回復できなかったのです。
その後も自由民主党結成に参加するなど、政界の重鎮として活躍をつづけるものの、無罪が確定したのは死の前年、昭和33年(1958)2月11日でした。
また、第二次世界大戦の遠因と近因を解明する内容の『最近世界外交史』『第二次世界大戦外交史』を刊行しました。
そのほか、改進党時代に、憲法第九条は自衛のための戦力保有を禁止しているものではないとの解釈、いわゆる「芦田修正」を発表、日本国憲法のもとで再軍備論をとなえて注目されています。
昭和34年(1959)6月20日、衆議院議員在職中に死去、71歳でした。
リベラリストの意外な一面
戦時中、軍に批判的な態度を貫いた芦田は、リベラリストとしての評価を受けて、占領体制下の政界で大いに活躍しました。
そのこともあって、芦田均は、現在でもとても人気・評価ともに高い政治家です。
ところで、芦田は首相辞任に関して、「私は一生を通じて二度迷った。一つはミヨ子(芦田の長女)の縁談の時、今一つは今回の辞任問題である」と記しています。(『芦田均日記』第2巻)
ここから芦田の家庭的な一面が垣間見えるとともに、じつは芦田にはかなりの文才があり、独特のユーモアのセンスを持ち合わせていたのがわかるでしょう。
今も昔も、日本で政治家の文章といえば、意味が分かりにくく面白くないのが一般的、そうした意味では芦田は極めて珍しい存在だったのです。
芦田の人生は、まさに栄光と挫折に彩られた壮絶な71年間でした。
首相時代は恵まれていたとは言い難い状況ですが、本人は後悔していていないといっています。
混迷が続く現在、芦田のような政治家がいてくれたら、などと思うのでした。
(この文章は、『国史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(6月19日)
明日(6月21日)
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