「浦上四番崩れ」が起こった日
7月15日は、1867年(慶応3年6月14日)に「浦上四番崩れ」が起こった日です。
明治時代はじめにかけておこったキリシタンへの大弾圧をみると、現在につながる日本の姿がみえてきます。
信徒発見
元治元年(1864)、日仏修好通商条約に基づいて、長崎に居留するフランス人のために南山手居留地に大浦天主堂が建てられました。
この大浦天主堂を元治2年(1865)4月12日、浦上村の住人数名が訪れたのですが、そのうちの一人、「ゆり」という女性がベルナール・プティジャン神父に歩み寄り、自分の信仰を告白して「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのです。
これが名高き「信徒発見」で、村人たちは聖母マリア像をみて歓喜、祈りをささげました。
その後、この話が伝わって、浦上村のみならず、外海、五島、天草などに住む信徒たちが続々とプティジャン神父のもとを訪れて神父の指導を受けたのです。
明治政府によるキリシタン大弾圧
しかし、慶応3年(1867)に浦上村に死者が出たとき、旦那寺の聖徳寺から僧を招かず自分たちで埋葬したうえ、聖徳寺との縁を切りたいという申立書を連名で庄屋に提出したのです。
こうして浦上村キリシタンは、公然と幕府が定めた禁教に反する宣言をしたことを受けて、6月14日(新暦7月15日)に長崎奉行所は調査の上信徒を捕縛し、厳しい拷問を加えたのです。
これが「浦上四番崩れ」とよばれるキリシタン大弾圧のはじまりでした。
事件の知らせを受けたヨーロッパ諸国の公使たちは、すぐさま長崎奉行所に抗議しますが、幕府は弾圧を続けます。
しかし、翌慶応4年(明治元年・1868)に幕府が大政奉還して弾圧は終わるかと思われました。
ところが、明治政府も同年4月7日に示した「五榜の掲示」でキリスト教の禁止を継続することを表明すると、信徒の拷問を行ったうえ、流刑まで行ったのです。
浦上崩れ
このように歴史に名高き「浦上四番崩れ」が起こりましたが、どうして「四番」なのでしょうか。
じつは、浦上村で幕府による禁教政策のもと、キリシタンの存在が発覚して事件となったのが一番・寛政2年(1790)、二番・天保13年(1842)、三番・安政3年(1856)と四番・慶応3年(1867)の四回起こったのです。
その中でも、この四番崩れは、明治元年4月25日(1868年5月17日)の御前会議により、「浦上一村総配流」が決定されるとういう異常な事件に発展します。
こうして浦上教徒事件が勃発し、浦上村キリシタン800人余りが西国の22カ所に配流されたうえに、五島をはじめ長崎県の広範囲に弾圧が拡がることとなったのです。
プティジャン神父の活動
キリシタン大弾圧がはじまると、この処置を欧米諸国が批判・抗議して外交問題に発展します。
明治2年12月18日(1870年1月19日)に高輪会談が開催されますが、「信仰は国法を越えた人絹であって人道に背く」とする各国公使と、「キリシタンは国禁で信徒は法を犯すものであり、その処置は内政問題で外国の干渉は受け付けない」として明治政府が交渉を拒否したのです。
その後、明治政府によるキリシタン大弾圧は、欧米各国で広く知れ渡ることになります。
きっかけは、「五島崩れ」とよばれる過酷な弾圧が行われた五島の状況を、プティジャン神父が詳細に調査して母国フランスをはじめ各国公使に報告したことでした。
これに対して明治政府は、拷問などの事実はなく、神父の虚構流言であるとして取り合いませんでした。
ところが、この対応がかえって日本の悪名を欧米諸国に広めることになったのです。
欧米各国の非難
こうして外交問題に発展した明治政府のキリシタン大弾圧は、欧米諸国からの猛烈な抗議を受けることになりました。
各国公使は弾圧の状況を詳細に本国に報告するとともに、明治政府へ繰り返し講義を行ったのです。
このような中で、明治4年(1871)欧米各国に派遣された岩倉使節団は、訪問先のアメリカ合衆国のグラント大統領や、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王のクリスチャン9世などから禁教政策を厳しく非難されました。
岩倉使節団の最大の目的は、欧米各国との友好親善をはかりつつ欧米先進国の文物視察でした。
これに加えて、不平等条約を改正するための予備交渉をもう一つの目的としていたのです。
ここで日本にとってもっとも大きな問題となったのが、この明治政府によるキリシタン弾圧が不平等条約改正の大きな障壁となっている事実だったのです。
また、欧米各国の新聞もこぞってキリシタン弾圧を糾弾したことで、日本に対しての世論も悪化する事態となっていました。
こうした「外圧」により、ついに明治6年(1873)2月24日にキリシタン禁制高札を撤去して禁教政策を放棄し、信徒たちを釈放せざるをえなかったのです。
弾圧からの解放
これによって、慶長19年(1614)以来260年にわたるキリシタン弾圧は終わりを告げて、ようやく信徒たちは自分たちの家へと帰ることができました。
そして信徒たちは流罪を「旅」と呼んで苦難を分かち合い、村々に教会を建てて祈りをささげる生活を取り戻すことができたのです。
こうしてみると、ペリー来航時の対応で明白なように、「外圧に弱い」日本がすでにこの時はじまっていたといえるでしょう。
「外圧に弱い」ことの裏を返せば、自己変革能力や自己浄化能力が弱いということにもなり、この点も変わっていないのかもしれません。
(この文章は、『切支丹の復活 前篇』浦川和三郎(日本カトリック刊行会、1927)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』を参考に執筆しました。】
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