【節分】節分の歴史:①節分とは? / ②お水取りと追儺と陰陽道 / ③お正月と節分がいっしょに来る / ④ニュータイプ節分の誕生
まず新年に伴う行事です。
といってもいわゆる「お正月」を祝うイメージではありません。
古くから日本では一年の初めに罪穢を祓って豊作を祈願する行事が行われていたようで、これが伝来した仏教と結びついて日本独自の仏教儀式である修正会が生まれました。
修正会は寺院と一部の神社で元日から3日間あるいは7日間(あるいは8日から7日間)にわたって行われ、その最後(結願)に修二会が行われました。
期間は現代では短縮されています。
修正会では多くの場合、壇供の花餅や鏡餅をかざって、前の年の収穫を感謝するとともに新年の豊作を願います。
修二会では、壇供に造花と稲の穂に擬した削り掛けを飾ってその年の豊作をあらかじめ祝う儀式を行います。
両法会では潔斎が重視されて精進潔斎して豊作を祈念するのがおこないで、僧徒の行法は悔過法(けかほう)によります。
この悔過法というのは罪障の消滅を求め五穀成熟・兆民快楽を祈る儀式で、『続日本紀』神護景雲元年(767)正月8日条にあるのを初源として、奈良時代には「正月悔過」、平安時代には「修正月」の名前で文献に多く残っています。
修二会は現在、東大寺二月堂のお水取りが広く知られています。
また、修正会の流れをくむものとして、岡山県岡山市西大寺の会陽(はだか祭り)、大阪市天王寺のどやどや、京都市伏見区日野の法界寺裸踊りなど西日本を中心に多くの行事が残っています。
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次に追儺についてみてみましょう。これは、新年の行事であったものが、春を迎える行事に変化したものです。
追儺(ついな)は、平安時代、年の初めに邪鬼や疫鬼を追い払った宮中行事でした。
古代中国の大儺(だいな)が起源で、中国の『礼記』には「冬至後の第三の儺(な)の日である臘(ろう)日の前一日に行われる疫払いの行事で、牲として土牛を四方の門にはり付けて陰の気を払い迎春の儀礼」と記されています。
これが日本に伝わって形を変え12月の大みそかに行う行事である追儺となりました。
日本では、異様な扮装をした方相氏(ほうそうし)という人が登場します。
方相氏は頭に角の生えた熊皮を被り、黄金の四つ目の仮面をつけて、黒い衣服に赤い裳をつけ、右手に戈、左手に楯を持ち、緋色の布衣を着た侲子とよばれる童子を二十人率いて内裏の四つの門をめぐります。
陰陽師が祭文を読み上げると、方相氏が大声を上げ戈で楯を三度打ち、その後、親王以下の群臣が桃の弓に葦の矢、桃の杖を以て悪鬼疫鬼を追い払うということが行われました。
この追儺は『続日本紀』慶雲3年(706)の土牛を立てて行ったとする記事をはじめとして『源氏物語』など、平安時代の文献に多く登場することから盛んに行われた行事と分かります。
ところが、鎌倉時代に入ると、方相氏が奇怪な姿だったために、逆に方相氏を鬼と見なして追い払う形に変化していきます。
また、寺社の修正会の最後に行われるようになって、今度は春を迎える行事となり、「鬼やらい」という名で広がりました。
これは、三人の鬼を竜天・毘沙門天が追い、堂内の参列者が牛玉杖で打ち、堂外の群衆が鬼につぶてを放つ、というものでした。
室町時代には追儺と豆まきが結びついて、邪気を払って福を招く行事として広く定着します。
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最後に、節分節についてみてみましょう。
平安時代には節分の日に「方違え(かたたがえ)」といって、陰陽道に基づき、自分の干支によって恵方に宿所を変えて厄を払う行事が行われました。
「方違え」は平安時代後期の『源氏物語』『中右記』や、鎌倉時代の『勘仲記』『吾妻鏡』にも記されています。
室町時代に入ると、家の外の宿所に移るのではなく、次第に恵方の部屋に移るだけに簡略化されていきます。
すると、部屋の中の厄を払って清浄にする必要が生じ、そのために豆まきが行われるようになります。
なぜ豆なの?といえば、近世以前の日本では、五穀の一つである豆には穀物の霊が宿り、その霊力によって悪霊を退散させられると信じられたからです。
こうして節分節と豆まきが結びつくことになったのです。
豆まきの様子は室町時代の『看聞御記(かんもんぎょき)』を始めとして書き残されています。
あの、「福は内、鬼は外」という唱え事も豆まきが加わった方違えの折に登場しています。
また、室町時代中期の『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』に「(節分は)難を駆るの様なり」とあり、節分が追儺行事の影響を受け鬼やらいの性格を強めていったことが分かります。
同じころの記録として、厄年の人が年の数だけ豆を食べ、また豆を銭と紙に包んで体を撫でて厄払いをし、辻に落として乞食に拾わせる風習が『宗長手記』などにみえます。
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