東京株式取引所の開業日
6月1日は、明治11年(1878)に、東京証券取引所の前身、東京株式取引所が営業を開始した日です。
そこで、東京株式取引所と東京証券取引所の歩みを振り返ってみましょう。
設立までの道のり
東京株式取引所は、日本で最初の公的証券取引機関です。
明治政府が明治11年(1878)1月19日には根拠となる株式取引所条例(太政官布告第8号)を制定すると、5月10日には渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・小松彰・渋沢喜作など11人が発起人となり、東京株式取引所の設立を出願したのです。
5月15日には大蔵卿大隈重信から免許を受けて、5月22日に東京株式取引所が成立、6月1日には仲買人76人、取引所職員14人で営業を開始したのです。
開設の背景・金禄公債
東京株式取引所の開設時点では、上場銘柄は秩禄公債の3種類のみで、上場企業はありませんでしたが、政府が開設を急いだ理由も、じつは公債の取引にあったのです。
というのも、明治政府はかつての藩債務を継承したことや、秩禄処分に伴う金禄公債を多量に発行したため、公債が円滑に流通する仕組みがどうしても必要でした。
もう少し詳しく見てみましょう。
金禄公債とは、武士たちに給料の支払いをやめる見返りに渡した証券のこと、いわば退職金のようなものです。
これを政府は現金で支払えなかったので、証券にしたのですが、かつての下級武士たちは、すぐにお金に変えないと暮らしていけません。
そのため、すぐにでも売買できる仕組みを作る必要があったのです。
そこで、明治7年(1874)の株式取引条例(太政官布告第107号)を制定し、ロンドン株式取引所をモデルに東京と大阪に取引所を設立させようと試みまたものの、規定が日本の実情に合わず失敗に終わってしまいました。
明治7~9年(1874~76)に秩禄処分に伴って発行した金禄公債が総額およそ1億7,390万円という途方もない金額となっていました。
そこで、政府は明治11年(1878)5月に新たな株式取引条例を制定し、東京株式取引所誕生を急いだのです。
投機的な市場
その後、金禄公債、起業公債が上場したのに続き、7月15日には東京株式取引所が上場、さらに、東京蛎殻町米商会所、東京兜町米商会所、第一国立銀行が続いたものの、しばらく新規上場は低調でした。
株式売買高が公債売買高を上回るようになったのは、ようやく明治19年(1886)のことです。
この事実からわかるように、日本は国家資本と財閥資本が中心だったので、株式市場の本来の役割であった長期的な産業資本の供給という役割は広がっていません。
このため、売買できる銘柄は少なく、東京株式取引所株と、日本郵船株、鐘紡株の三銘柄に取引が集中してしまい、取引所での売買はきわめて投機的なものになったのです。
市場の変化
その後、満州事変や日中戦争などにより、景気が回復するに伴って、株式の新規発行が増加するなど、市場に変化が現れました。
これは、日本の重化学工業が発展していよいよ社会的資金を集中する方式への変更が迫られたうえ、財閥批判が強まったことで財閥の大企業も株式を公開したことがあげられます。
さらに、新興財閥の株式公募、保険会社などの機関投資家による株式投資の活性化などにより、ようやく株式取引所が投機市場ではなく、投資市場として機能するようになったのです。
戦争を越えて
戦時体制と戦時経済統制が、ようやく活性化した東京株式取引所に暗い影を落とします。
昭和18年(1943)には、全国の11株式取引所が統合されて廃止されて東京に日本証券取引所が誕生し、旧東京株式取引所の施設をそのまま利用することになりました。
そして終戦直前の昭和20年(1945)8月10日に日本証券取引所の立会いは休止され、戦後の昭和22年(1947)には解散を命じられたのです。
その後、昭和23年(1948)4月に証券取引法が公布されると、昭和24年(1949)5月に東京証券取引所が誕生し、新たに事業を開始されました。
その後は、戦後日本経済の高度成長に歩調を合わせるかのように東京証券取引所も拡大し、世界有数の規模を誇るまでに発展していったのは皆さんご存じでしょう。
東証には「未来」がある
資本主義の中核・株式会社は、株式を発行することで、より多くの出資者からより多くの資本を調達することができます。
いっぽう、出資して株式を得た株主は、その株式を売却して出資金を回収できる仕組みです。
東京証券取引所は、この株式の売買を円滑に行えるようにするための機関、つまり、資本主義社会を支える存在といってよいでしょう。
ここまで東京株式取引所と東京証券取引所の歩みをみてきましたが、ここで興味深い事実があります。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)2月から、民需株を中心に株価が上昇していたのです。
日本の都市は米軍の空襲によって焼き尽くされ、国中で本土決戦が叫ばれる中でしたが、絶望的状況の中でも、すでに終戦を見越した動きがはじまっていたというから驚きです。
あるいは、資本主義国・日本では人々の東京証券取引所に未来への思いがつまっているのかもしれません。
(この文章は、『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥、吉田裕(岩波書店、2007)『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子(朝日出版社、2009)、東京証券取引所Webサイトおよび『国史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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