前回は新宮城の築城から現代にいたるまでの歴史をみてきました。
そこで次回は、新宮城(丹鶴城)の構造と、新宮の人々が寄せる想いをみてみましょう。
浅野家新宮城の構造
浅野忠吉に築かれた新宮城は、本丸・二の丸・二の丸段などからなる平山城で、城門6,櫓門5,二層櫓4,単層櫓9と、下屋敷、侍屋敷を配するものでした。
本丸には大天守と小天守が築かれて、大天守は9間四方、小天守は3間×4間で、複合式天守の形式をとっていました。
ところが、この新宮城の完成間近になって、浅野忠吉は三原へ国替えとなったのです。
新宮城の完成
浅野忠吉に代わって元和5年(1619)7月19日に、水野重央(重仲)が浜松から新宮へ入国します。
築城工事は水野家によって引き継がれ、寛文7年(1667)、水野家三代重上の代に、石塁などの増築が完成して、ようやく城は完成しました。
新宮城の規模と構造
新宮城の規模は、東西180間(約324m)、南北110間(約198m)、周囲540間(約972m)。
縄張りは、本丸を中心に、その南西に鐘の丸、北東に松の丸、さらに、これら曲輪の下に二の丸を配しています。
城の北は熊野川が天然の堀となり、南は日和山の丘が塁壁となり、さらに南には東西75間(約135m)、南北45間(約81m)、深さ1間半(約5m)のため池を築きました。
いっぽう、城の北には水の手を置き、船の出入りがしやすいようにしたうえで蔵を設けました。
さらに城の西側に侍屋敷を配して、水際の丘と平地を巧みに利用した縄張りとなっています。
新宮城の建造物
建造物は、本丸の天守を中心に、40余の門や櫓が白壁の塀で結ばれていました。
その天守は、5間×8間の三層白亜で、三層五階とする説が有力です。
ここで、浅野忠吉が築いた城と、水野家の城とをくらべてみましょう。
忠吉の二の丸が鐘の丸となったこと、これに付随して松の丸が築かれたこと、一部の堀の位置が異なることと、あまり大きな違いはありません。
丹鶴城への想い
新宮出身の佐藤春夫は、故郷への思いを込めて新宮城跡を詠いました。
最後に、この作品をみてみましょう。
佐藤春夫「古城にうたう 丹鶴城」
これは水野氏の丹鶴城
昔は三万六千石
今はわが父の裏山つづき
少年のわがよき遊び場
竹を切り木の枝に攀ぢ
蝶を追ひ小鳥を捕りき
本丸は茅花ほおけて
笹原に鶯啼きぬ
蔦もみぢ石垣ゆるみ
わが友のいま二の丸に
営めるホテルあり
風光を天下に誇る
多謝すわがお城山
美をわれにむかし教へき
柏亭は「滞船」を描き
われが師与謝野の大人は
なつかしくここに歌へり
聞けや君清きしらべを
碑に彫らまほしきは
「高く立ち秋の熊野の海を見て誰ぞ涙す城の夕べに」
ここまで新宮城についてみてきました。
そこで次回からは、新宮藩水野家の歴史をみていきたいと思います。
まずは水野家がどのような歴史があるのか、そのはじまりからみてみましょう。
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