前回は、立花宗茂の初陣から立花山城攻防戦までをみてきました。
岩屋城を攻め落として勢いに乗る島津軍は、このまま九州を平定するのでしょうか。
そこで今回は、宗茂の反撃と秀吉の九州征伐についてみてみましょう。
大友宗麟の救援要請
各地で島津軍に圧倒されるなか、いっぽうで大友宗麟は天正14年(1586)に上方へ向かい、天下統一を目指す豊臣秀吉に大坂城で謁見していたのです。
じつはすでに、関白秀吉は天正13年(1585)10月、島津氏と大友氏に朝廷の意向を以て停戦を命じていました。
島津氏は、秀吉が「成り上がり物」で「氏素性のかわからないもの」として、停戦命令を無視して戦いを続けたのです。
追い込まれた宗麟は、秀吉に臣従して援軍を要請すると、秀吉は天正14年(1586)4月に毛利氏をはじめとする諸将に九州出陣の準備を命じました。
そして約定通りに秀吉は、仙谷久秀を主将とする十河存保・長曾我部元親ら四国勢からなる先遣隊を豊後に送ります。
ところが、12月12日に戸次川の戦いで先遣軍が島津軍に壊滅させられてしまいました。
そのころ、豊後に戻った宗麟は、本拠の豊後府内城も陥落し、丹生島城、現在の臼杵城に籠って、最新鋭武器のフランキ砲を駆使してかろうじて防御に成功します。
豊後国の大友勢は、栂牟礼城や岡城、鶴崎城など数か所で拠点を防衛する状況となって、もはや滅亡寸前まで追いこまれていたのです。
宗茂反撃
いっぽう、名将紹運を失った筑前はというと。
宗茂の籠る立花山城に迫った島津軍でしたが、紹運との戦いで消耗しきっていました。
そこへ、毛利軍が九州上陸に上陸したとの情報が入り、島津軍はいったん肥後に退いて体制の立て直しを図ることにしたのです。
宗茂は、このスキを見逃すはずはありません。
豊臣軍の来援を待たずに島津軍を追撃して大損害を与えたうえ、高鳥居城と岩屋・宝満両城を奪還する武功をあげて、秀吉軍の到着を待ったのです。
秀吉の九州征伐
そしてついに、天正15年(1587)豊前国小倉に先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢に豊臣秀長の率いる軍団が合流します。
ここに秀吉本隊も加わって、総勢10万とも20万ともいわれる大軍が九州に上陸したのです。
秀吉の大軍が来襲との報を受けた島津義久は、当初豊後で戦うものの、戸次川のほかでは勝つことはできませんでした。
そこで戦線を大きく後退させて、九州の北半は実質的に放棄して、日向と肥後で秀吉軍を迎え撃つ作戦を採ります。
鎮西一の武者
いっぽう、九州に到着した秀吉は立花宗茂を高く評価して、宗茂を家臣に取り立てました。
これに応えて宗茂は先鋒として無類の働きをみせます。
肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とし、薩摩に進んで島津忠辰の出水城を攻め落としました。
さらに、川内で忠辰を撃破したうえに、秀吉に代わって島津氏の有力家臣であった伊集院氏、祁答院氏、入来院氏らを降伏させたうえ、大口城に新納忠元を包囲したのです。
こうした働きを認めて、秀吉は九州平定後の国分けで、宗茂に筑後国柳川13万2,000石を与えて大名に取り立てました。
このとき、秀吉は宗茂を「忠義、剛勇は鎮西一」「九州之一物(逸物)」と激賞したといいます。
その後、天正15年(1587)9月に、佐々成政が入封した肥後国で大規模な国人一揆が発生すると、実弟の高橋統増(のちの立花直次)とともに救援に向かい、数々の武功を揚げました。
また、天正18年(1590)小田原征伐では、岩槻城や江戸城攻撃に参加しています。
ここまで九州征伐からの立花宗茂の活躍をみてきました。
次回は、文禄の役での宗茂をみてみましょう。
《今回の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『角川日本地名大辞典』『福岡県の歴史』『国史大辞典』をもとに執筆しました。》
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