前回、白河小峰城と棚倉城という同盟軍の重要拠点を手中に入れた新政府軍は、さらに北をめざします。
次なる戦場は二本松城、戦国時代以来の戦略上の要衝です。
そこで今回は、この二本松城の攻防戦をみてみましょう。
三春城・守山陣屋の無血開城
前回みたように慶応4年(1868)7月に入って白河城と磐城平城を落とすと、新政府軍の優勢が決定的になって、次に戦場となるとみられる三春・守山両藩にも動揺が起こります。
じつは、両藩とも積極的に同盟軍に参加しいてたわけではありませんでした。
そこで、棚倉藩では、河野広胖・広中兄弟など勤王派が積極的に工作した結果、藩論がまとまって7月27日に棚倉城を無血開城したのです。
こののち、棚倉藩は新政府軍として戊辰戦争に参加、新政府軍の案内役も積極的に勤めることになります。
いっぽう、守山藩は水戸徳川家の分家でしたので、元来は勤皇派が多かったのです。
そういうわけで、三春城の無血開城をみると、ただちに降伏の死者を新政府軍に派遣しました。
そして7月28日には守山藩も新政府に降伏し柳川・大村両藩の藩兵が三春から守山陣屋(守山城)に入ったのです。(「9月17日薩摩藩届書写二通」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋9月 第90』)
このあと、柳川藩は守山にとどまって守備にありました。
二本松城攻防戦
いっぽう、板垣退助率いる新政府軍は、7月27日正午ごろに二本松攻略にむけて出発します。
29日には新政府軍が二本松城への攻撃を開始すると、二本松藩兵は名高い少年隊も戦陣に加わって頑強に抵抗します。
しかし、兵数と装備で勝る新政府軍に圧倒されて次第に追い詰められていきました。
ついに藩主丹羽長国とその家族を米沢へと落としたあとに、二本松城内で城に火が放たれたのです。
こうして、主戦派の家老丹羽一学などの重臣たちが自害、二本松少年隊を含む多くの藩士が犠牲となって二本松城は陥落しました。
まさに二本松藩丹羽家は「城を枕に討ち死」する壮絶な最期を迎えたのです。
同盟軍の二本松奪還作戦
こうして、二本松城が落城したことで北方への退路を断たれた須賀川の仙台藩兵は、西の会津領を経由して大回りで仙台藩に帰還し、白河周辺から同盟軍は完全に姿を消しました。
いっぽうで、浜通りの海道軍に目を転じると、8月3日には浜通りの相馬藩も降伏して中村城が開城したうえ、8月11日には仙台藩領境の駒ヶ嶺を制圧する状況となっていたのです。
これに対して仙台藩は駒ヶ嶺奪還のため、8月16日と20日に総攻撃を仕掛けるものの撃退されています。
ついに戦線は仙台藩に到達し、新政府軍はいつでも仙台へと進行できる体制となったのです。
柳川藩、二本松に転陣
こうして二本松まで戦線が北上して白河城周辺の状況が安定した8月中頃、白河周辺を守備していた彦根・岡山・忍と柳川の各藩に二本松への転陣が命じられました。
各藩は19日に二本松に集結、福島への進撃の準備に入ります。(「彦根藩届書写四通追録」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋9月 第82号』
その直前の8月17日に同盟軍が福島に兵を集めて、五方向から総勢3,000の兵力で二本松奪還を目指しましたが、さらに増強された新政府軍に完敗したのです。
こうして同盟軍は、二本松をあきらめざるを得ませんでした。
仙台藩と会津藩をつなぐ位置にある戦略上の重要拠点・二本松城を奪取した新政府軍は、いよいよ同盟軍の中心、仙台藩と朝敵会津藩に攻め込むこととなりました。
そんな中、追い詰められた仙台藩は、新政府軍のすきをついて「裏切りもの」とみなした下手渡藩を攻撃します。
そこで次回は、下手渡の戦いについてみてみましょう。
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