前回みた王直が五島を去ると、今度は入れ替わるようにヨーロッパから宣教師たちがやってきます。
今回は、五島を訪れた宣教師たちが記録した「五島ルイス」の時代をみてみましょう。
宣教師来島
1563年(永禄6)に50歳となった五島領主宇久純定は重い病にかかり、この治療のため槙瀬浦にいたイエズス会のトルレス神父のもとに医師の派遣を依頼します。
この依頼に応えて日本人キリスト教徒の医師ディエゴを派遣したところ、純定の病は快癒し、これを大いに喜んだ純定はキリスト教に対しても強い関心を持つようになって、こんどは説教師の派遣を依頼しました。
アルメイダとロレンソの来島
そこで、永禄9年(1566)にアルメイダ修道士と日本人キリシタン・ロレンソを五島に派遣、最初は仏教徒や僧の抵抗もあって不況が進みませんでしたが、領主純定やその一族の病気を治療したことから次第に信頼を得るようになり、はじめは大値嘉、ついで奥浦で多くの信徒ができたのです。(『日本史9』1565年9月23日フェルナンデス書簡・1568年10月20日アルメイダ書簡/通信下)
ちなみに、ロレンソ了斎は、名高い高山右近を入信させ、さらには織田信長の面前でルイス・フロイスとともに仏教代表の朝山日乗と激しく論戦して見事に撃破した人物でした。
また、アルメイダは大友宗麟の支援で大分に日本で最初の西洋医学の病院を建てたことでも知られています。
アルメイダとロレンソの黄金コンビは、布教の困難なところに贈られるエース的存在でしたのしたので、イエズス会の期待のほどがわかりますね。
五島ルイス
さらに、1568年(永禄11)には領主の23歳の庶子・宇久純尭が洗礼を受けてルイスの洗礼名を与え、ドン・ルイスよばれます。
ここからはルイス・フロイスが『日本史』で記した「五島ルイス」の歩みをたどってみましょう。
この「五島ルイス」は領内で信用があり、いずれ家督を継ぐと期待される人物でした。
そして期待通り、彼の庇護を得て五島でキリスト教信者が定着していくことになります。
しかし淡州が死去すると、孫の右衛門大夫が後継者となりましたが、彼が年若いこともあって、反キリスト教の叔父に牛耳られて、その叔父が画策してルイスと一年以上争ったのち、ルイスは家臣・信徒を連れて長崎に亡命、その後、島津氏の仲介で家臣半数を連れて五島に戻ったのです。
五島ルイスは誰?
現在の研究では、ルイス・五島は同じ洗礼名を持つ複数の人物のことが同一人物として描かれたと考えられています。
一人目は、宇久純定の庶子・ルイス純尭で、天正4年(1576)に領主となった人物。
その後、統治わずか3年の天正7年(1579)に没すると、純定の長男である純尭の子・純玄が跡を継ぎます。
すると、純定の三男・ルイス玄雅がこれと争って長崎に亡命、のちに島津氏の仲介で和解して、文禄3年(1594)に純玄が死去すると、玄雅が跡を継いだのです。
『日本史』ではルイス純尭とルイス玄雅が同一人物になっているわけですね。
五島玄雅のキリスト教弾圧
ところで純玄が一時期、反キリシタン政策をとったのは事実で、1582年(天正10)の日本年報には「五島は異教の領主が治める数箇の島で、彼は平戸の領主に劣らぬキリシタンの迫害者である」と伝えています。
純玄はもともと重臣や貴人の入信を禁止していましたが、豊臣秀吉がバテレン追放令を出してからはさらに迫害を強めて、天正18年(1590)には洗礼もキリシタンが葬式を出すことも厳禁し、翌年には宣教師を退去させてしまいました。
その後、純玄が実権を持つと布教が再開されるのですが、これについてはのちに別の回でみることにしましょう。
今回は宣教師たちが記録した「五島ルイス」の時代をみてきました。
次回は、ルイス・フロイスが書いた『日本史』に記された五島をみてみましょう。
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