五島子爵家麻布邸跡を歩く【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編 49】

《最寄り駅:東京メトロ日比谷線・都営大江戸線 六本木駅》

明治27年(1897)ころから明治42年(1909)ころにかけて、五島子爵家当主の五島盛輝は麻布区我善坊町32番地に邸宅を構えていました。

この場所は、現在の地名表記で、港区麻布台1丁目にあたります。

そこで今回は、この五島子爵家麻布邸跡の周辺を歩いてみることにしましょう。

ちなみに、この五島子爵家が麻布我善坊町に構えた邸宅について、当時の呼称がわかりませんでしたので、当時一般的だった町名や地域名を冠しての呼び名である麻布邸と呼ぶことにします。

五島子爵家麻布邸跡 コースマップ 
【五島子爵家麻布邸跡 コースマップ 】

六本木交差点

東京メトロ日比谷線六本木駅3番出口を出ると、目の前は六本木通で、その上を首都高3号渋谷線が走っています。

六本木交差点の画像。
【六本木交差点】

そこにはテレビなどでよく六本木の象徴として使われる「ROPPONNGI」の文字が目につく六本木交差点、ここから散策を始めましょう。

都営大江戸線六本木駅出発の方は、5番出口から出ると出発地の六本木交差点に到着します。

外苑東通りを東へ

それでは、外苑東通の南側を、東の東京タワー方向へ歩きましょう。

五島藩六本木上屋敷跡地を通り過ぎて、さらに東へ200mほど進むと麻布通りと交わる飯倉片町交差点、ここで麻布通りをくぐる地下歩道を通って麻布通りの東に出ます。

すると、交差点に接して建つ麻布小学校の前に出てきました。

麻布小学校といえば、前に「五島藩上屋敷と五島子爵家鳥居坂邸を歩く」でみたのを覚えていられるでしょうか。

現在の麻布小学校(2021年)の画像。
【現在の麻布小学校(2021年)】

麻布小学校

麻布小学校は明治8年(1875)6月に市兵衛町2丁目63番地に創立、明治15年(1882)8月にかつての五島藩上屋敷跡地の一角である東鳥居坂町3番地に移転しました。

今上天皇陛下(大正天皇)(『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所 編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【今上天皇陛下(大正天皇)『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所 編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション 】
竹田宮恒久王(『皇室皇族聖鑑 大正篇』(東洋文化協会編、昭和12年(1937))Wikipediaより20210907ダウンロード)の画像。
【竹田宮恒久王『皇室皇族聖鑑 大正篇』(東洋文化協会編、昭和12年(1937))Wikipediaより】

明治20年(1887)3月29日には当時の明宮嘉仁親王、のちの大正天皇が臨御されています。

さらに、明治22年5月からおよそ1年にわたって北白川宮恒久王殿下(のちの竹田宮)が御降学する栄誉に浴したのです。

昭和8年(1933)11月には近隣の麻中小学校と合併したうえに飯倉町6丁目14番地に鉄筋コンクリート三階建の新校舎を建築して移転しました。(以上『麻布区史』)

戦後、三河台小学校と合併して現在の麻布小学校が誕生しました。

卒業生には、「エノケン」の愛称で知られるコメディアンの榎本健一、俳優の片岡千恵蔵、指揮者の朝比奈隆など、各界で活躍する卒業生を多数輩出したことでも知られています。

片岡千恵蔵の多羅尾伴内(東映『曲馬団の魔王』(1954年)スチル写真)Wikipediaより20210821ダウンロード)の画像。
【片岡千恵蔵の多羅尾伴内(東映『曲馬団の魔王』(1954年)スチル写真)Wikipediaより】

紀州徳川侯爵家麻布邸

じつは、現在麻布小学校が立っている場所には、明治6年(1873)から関東大震災まで、紀州徳川侯爵家があったのです。

その説明板を港区教育委員会が麻布小学校前に設置していますので、長くなりますが、これをみてみましょう。

「近代文化の拠点 ―旧紀州徳川家屋敷跡
江戸時代徳川御三家の一つであった旧紀州和歌山藩主徳川家は、明治初期に麹町・赤坂の拝領屋敷を皇室と明治政府に返納した後、明治6年(1873)から大正末期まで、現在、港区立麻布小学校などがある港区麻布台1丁目に屋敷を構えた。


この間、同家第十五代当主徳川頼倫は、わが国最初の市立図書館である「南葵文庫」を邸内に設け、育英奨学団体「南葵育英会」を設立、学生寮「第一進修学舎」を建設した。

さらに第十六代当主徳川頼貞は、本格的な音楽ホールとしてはわが国最初となる「南葵楽堂」や、音楽関係資料を集積した「南葵音楽文庫」を開設した。

南葵文庫本館(港区設置案内板より)の画像。
【南葵文庫本館(港区設置案内板より)】


しかし、大正12年(1923)の関東大震災などにより大打撃を受け、わが国の文化、教育の振興に多大な貢献を果たしたこれらの施設の多くは、その歴史的役目を終えた。


明治44年(1911)に創設された財団法人南葵育英会は、今年100周年の節目の年を迎えるにあたり、忘れ去られようとしているこれらの事績を後世に伝えるため、記念事業の一環として旧紀州徳川家屋敷跡に銘板を設置することにした。

南葵奏堂(港区設置案内板より)の画像。
【南葵奏堂(港区設置案内板より)】

なお、南葵文庫の蔵書は、現在、伯爵徳川慶喜が揮毫した扁額とともに、東京大学総合図書館に収蔵されている。

また、南葵楽堂に据えられていたパイプオルガンは、東京音楽学校から上野公園に移築された「旧東京音楽学校奏楽堂」に設置され、保存と活用が図られている。
    平成23年8月   財団法人 南葵育英会 港区教育委員会」

消えた坂

それでは、麻布小学校前の行合坂を下って北へ進みましょう。

小学校のすこし北に、東へ向かって下る落合坂が見えるはず、その曲がり角がまさに五島子爵家麻布邸の跡地なのですが・・・

なんと、一帯が工事中で何も見えません、しかも落合坂が見当たらないのです。

町を丸ごと作り変える再開発工事で、どこがどこだかまるで分らない状態。

しかたなく、飯倉片町交差点に戻って外苑東通りを東に進み、外交史資料館に行ってみましたが、こちらはなんとコロナで休館中!

途方に暮れた私は、麻布小学校まで戻って、日曜で人気のない小学校の入り口で夏の日差しを避けつつ、休憩することにしました。

そこで次回は、五島子爵家麻布邸についてみてみましょう。

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