前回みたように、江川城の炎上、幕府による貿易禁制、さらには朝鮮出兵時などの費用による藩財政の危機と、問題山積となった五島藩ですが、だからこそ盛利は「福江直り」を急ぎました。
しかしまたもや新たな、しかも大きな問題が発生します。
今回は、大坂の陣と五島家をみていきましょう。
豊臣家滅亡
慶長19年(1614)ついに徳川家康は豊臣家を討滅する決意を固め、方広寺鐘銘事件をおこして豊臣家を挑発し、10月1日大阪城攻めの出陣命令を下しました。
ここに大坂冬の陣が勃発し、徳川軍30万の大兵力が12万あまりの豊臣軍がこもる大阪城を攻撃します。
1か月余りにわたって両軍が対峙するものの決着がつかず、12月には和睦がなって軍は収束するかに見えました。
しかし、元和元年(1615)3月晦日にふたたび家康は諸大名に出陣命令を下し、大坂夏の陣が勃発します。
真田幸村をはじめとする豊臣方の驚異的な奮闘で大激戦となりましたが、5月には大坂城が炎上して豊臣秀頼が自害、息子の国松が処刑されて豊臣家が滅亡しました。
大坂夏の陣と五島家
前に見たように、五島家は外様小藩にもかかわらず、豊臣の姓を下賜される破格の待遇を受けていました。(第14回「五島玄雅と慶長の役」参照)
そのため、豊臣恩顧の大名に数えられることになるのですが、この豊臣家の存亡をかけた戦いに五島家はむつかしい立場に立たされたのです。
夏の陣では、先発隊として重臣の青方雅盛を派遣し、雅盛は功をあげました。(『三百藩家臣人名事典』)
大坂冬の陣
さらに、冬の陣でも五島藩に出陣命令が下されます。
いまだ「福江直り」が完了しておらず、藩内が安定していないうえに、出陣して合戦となり出費がかさむことはぜひとも避けたいのはいうまでもありません。
とはいえ、幕府の命に反して取り潰しにでもなるのは絶対に避けたいところです。
そこで盛利は、またまた「福江直り」を中断して、自ら兵を率いて出陣するものの、行軍を遅らせる作戦をとりました。
五島盛利のねらい
じつはこれ、のちに大浜主水が暴露したところでは、徳川家と豊臣家のどちらが勝ってもいいように書状を用意していたというから驚きです。
この期に及んで両家を天秤にかけるとは、小藩が生き残る知恵ともいえるのかもしれませんが、一歩間違えばお家取り潰しにもなりかねない極めて危険な考え方といっていいでしょう。
盛利のねらった通りに大坂に着く前に大坂城は落城し、豊臣家は滅亡したのです。
そこでそのまま上洛して家康に戦勝祝賀を表すると、幸運にもそのまま家康から許されて帰国しました。(『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『海の国の物語』)
石田陣屋築造
大坂の陣が終わると、元和3年(1617)に盛利は、江川城が焼失してから藩主の居所がなかったために、築城の名手ともいわれた唐津城主・寺沢広高の設計で、深江石田浜に陣屋の構築にかかります。(『全大名家事典』『海の国の記憶』)
さらにこの年の9月5日には将軍秀忠からの領地朱印状を受けて、領地高一万五千五百三十石が確定しました。(『三百藩藩主人名事典』)
これをうけて、盛利は領主権の確立するために「福江直り」を再開したのですが、ここで恐れていた最悪の事態が起こってしまいます。
次回は、領内を二分するお家騒動「大浜主水事件」の勃発をみてみましょう。
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