前回みたように、五島玄雅は幕府におもねって、海外交易の発展をめざしました。
今回は、玄雅の後を継いだ盛利の時代をみてみましょう。
五島盛利(もりとし・1591~1642)
宇久盛長の長男として天正19年(1591)に生まれました。
先に見たように、文禄3年(1594)8月に当主五島純玄が朝鮮出兵中に病没したため、その叔父の大浜玄雅が家督を相続する条件として、弱冠4歳で玄雅の養嗣子になったのです。(第13回「五島純玄、戦地に死す」参照)
慶長8年(1603)に伏見城で養父玄雅とともに徳川家康に面謁して次期当主としての地位を固めたのでした。
そして慶長17年(1612)5月に養父玄雅が死去し、家督を相続します。
翌慶長18年(1613)6月には、五島高辻帳二冊を幕府に提出して襲封して五島家第3代(宇久第22代)当主となりました。
禁教令布告
ちょうど盛利が家督を継いだ慶長17年(1612)3月21日に、幕府は直轄地である駿府・江戸・京都に禁教令を布告したことをてはじめに、全国でキリスト教の禁制が行なっていきます。
いっぽう、先代玄雅の治世からキリスト教の弾圧をおこなってきた五島藩では、これがさらに強められたのです。
こうして、慶長11年(1606)に2,300人を超えたとされるキリスト教徒は潜伏して地下に潜って「隠れキリシタン」となり、多くのキリスト教関連遺跡を生み出すことになりますが、それはまたのちに見ることにしましょう。(第32回「隠れキリシタンの島」参照)
盛利の藩政改革
さて、盛利が藩主となったときは、朝鮮出兵や関ケ原の戦いでの出陣で莫大な出費があったことにより、早くも藩財政が危機に瀕していたのです。
藩政改革が必要な五島の領主権を確立するために、貞方雅貞(もと平田甚吉)を惣役にすえて藩政改革にかかりました。
これまでは島内各地の大小領主はそれぞれ自前の所領をもって分立していて、正月元旦から十五日まで江川城における年賀参列を果たせば、それで臣従したことにするというゆるやかなルールになっていたのです。
このように家臣である島内の領主たちがなかば自立した状況では、家臣の統制がむつかしいのは当然のことですね。
そこで、雅貞は兵農分離を行う意味でも、これらの在郷家臣を江川城下に集住させる「福江直り」、いうなれば五島藩版の中央集権化がどうしても必要であることから、これを計画しさっそく実行に移したのです。
江川城焼失
ところが、「福江直り」を始めたころに大坂冬の陣がおこるとともに、慶長19年(1614)8月15日に居城の福江・江川城が原因不明の火災によって全焼し、城下の家臣宅も類焼して「福江直り」は振出しに戻ってしまいました。
こうして盛利の藩政改革は、いきなり挫折することになったのです。
幕府による海外交易禁止
さらに悪いことに、同年に幕府は唐船の貿易港を長崎の一ヶ所に限定してしまいました。
これによって五島本島の江川・深江(福江)および唐船浦での貿易が禁止されてしまったのです。
こうして先代の五島玄雅から追い続けていた海外交易による藩財政再建は不可能となってしまいました。
藩政改革の挫折と長年の夢が霧散するダブルパンチで、藩主・盛利は厳しい状況に追い込まれてしまいます。
はやくも藩財政の危機を迎えた五島藩、これからどうなってしまうのでしょうか。
次回は、大坂の陣と五島家をみていくことにしましょう。
《今回の記事は、『物語藩史』『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』『海の国の記憶』をもとに作成しています。参考文献などは、第43回「五島子爵家の終焉」を参照してください。》
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