前回は五島氏の先祖・宇久氏が福江に江川城を築くまでをみてきました。
今回は、中世に倭寇で東アジアにその名をとどろかせる様子をみてみましょう。
三島の倭寇
13世紀はじめから、朝鮮半島南岸で「倭人」による小規模な寇掠が見られましたが、高麗中定王二年(1350)からはこれが激化して深刻化していきました。
その被害は高麗の首都開京(現在の開城)周辺にまで及ぶようになったのです。
この寇掠を行う倭人について朝鮮では「三島の倭寇」と呼んでいましたが、その三島とは、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民を指していたのです。
五島も松浦一党でしたので、この中に含まれていました。
高麗滅亡と李氏朝鮮建国
この倭寇を構成したのは、倭人つまり日本人が一二割を占めるにすぎず、じつはは賤民や逃亡農民などの高麗人が大多数を占めていたのです。
これに対して高麗王朝は武力討伐だけでは鎮圧できないと考えて、使者を日本の要地に派遣して倭寇禁止を要求します。
しかし、こうした対策が効果を出す前に、倭寇が巻き起こした混乱の中で1392年に高麗王朝は倒れて李氏朝鮮が起こりました。
朝鮮は高麗の外交による解決政策を受け継ぐ地とともに、軍備を充実し、さらに日本人倭寇に対して懐柔策をとったのです。
投降したものには官職や住居などを与え、利益を求めるものには条件付きで貿易を認めました。
そして、倭寇禁止に協力した領主には進貢船の派遣を認めるとともに、外交の窓口を対馬の宗家に限定したのです。
五島太守
こうした対策が功を奏して、朝鮮半島での倭寇は鎮まりました。
いっぽう、五島は倭寇の本拠地の一つとして知られていたこともあって、李氏朝鮮から「五島大守」として宇久氏が通交を認められたのです。
これに対して宇久氏も、漂流した僧侶を助けて送り返したり(成宗7年)、五島に漂着した朝鮮人一行を送り返したり(中宗35年)と、期待に応える働きを見せたのでした。(以上『日本地名大事典』)
結果として、朝鮮半島との通交は、宇久氏に経済的利益を得ると同時に、五島列島での領主としての地位を確立するのに役立ったのは言うまでもありません。
今回は、朝鮮半島で猛威を振るった倭寇と、李氏朝鮮と独自のつながりを持った宇久氏についてみてきました。
次回は、中国人倭寇の頭目・王直が五島に本拠を置いたころをみてみましょう。
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